轣Aさっき下宿で辰子の話が出たにも関らず、何故今までこんな事を黙っていたのだろうと考えた。が、それは彼自身にも偶然か故意か、判断がつけられなかった。

        二十

 プラットフォオムの上には例のごとく、見送りの人影が群《むらが》っていた。そうしてそれが絶えず蠢《うごめ》いている上に、電燈のともった列車の窓が、一つずつ明《あかる》く切り抜かれていた。野村《のむら》もその窓から首を出して、外に立っている俊助《しゅんすけ》と、二言《ふたこと》三言《みこと》落着かない言葉を交換した。彼等は二人とも、周囲の群衆の気もちに影響されて、発車が待遠いような、待遠くないような、一種の慌《あわただ》しさを感じずにはいられなかった。殊に俊助は話が途切れると、ほとんど敵意があるような眼で、左右の人影を眺めながら、もどかしそうに下駄《げた》の底を鳴らしていた。
 その内にやっと発車の電鈴《ベル》が響いた。
「じゃ行って来給え。」
 俊助は鳥打帽の庇《ひさし》へ手をかけた。
「失敬、例の一件は何分よろしく願います。」と、野村はいつになく、改まった口調で挨拶した。
 汽車はすぐに動き出した。俊助はいつまでもプラットフォオムに立って、次第に遠ざかって行く野村を見送るほど、感傷癖に囚われてはいなかった。だから彼はもう一度鳥打帽の庇へ手をかけると、未練なくあたりの人影に交って、入口の階段の方へ歩き出した。
 が、その時、ふと彼の前を通りすぎる汽車の窓が眼にはいると、思いがけずそこには大井篤夫《おおいあつお》が、マントの肘《ひじ》を窓枠に靠《もた》せながら、手巾《ハンケチ》を振っているのが見えた。俊助は思わず足を止めた。と同時にさっき大井を見かけたと云う野村の言葉を思い出した。けれども大井は俊助の姿に気がつかなかったものと見えて、見る見る汽車の窓と共に遠くなりながらも、頻《しきり》に手巾《ハンケチ》を振り続けていた。俊助は狐《きつね》につままれたような気がして、茫然とその後を見送るよりほかはなかった。
 が、この衝動《ショック》から恢復した時、俊助の心は何よりも、その手巾《ハンケチ》の閃きに応ずべき相手を物色するのに忙しかった。彼はインバネスの肩を聳かせて、前後左右に雪崩《なだ》れ出した見送り人の中へ視線を飛ばした。勿論彼の頭の中には、女づれのようだったと云う野村の言葉が残っていた。しかしそ
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