けていたが、やがて白い目を、ぎょろりと一つ動かすと、干《ひ》からびたくちびるを、二三度無理に動かして、
「おじいさん。おじいさん。」と、かすかに、しかもなつかしそうに、自分の夫を呼びかけた。が、たれもこれに答えるものはない。猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、老女の救いを得《う》ると共に、打ち物も何も投げすてて、こけつまろびつ、血にすべりながら、いち早くどこかへ逃げてしまった。そのあとにももちろん、何人かの盗人たちは、小路《こうじ》のそこここに、得物《えもの》をふるって、必死の戦いをつづけている。が、それらは皆、この垂死の老婆にとって、相手の侍と同じような、行路の人に過ぎないのであろう。――猪熊のばばは、次第に細ってゆく声で、何度となく、夫の名を呼んだ。そうして、そのたびに、答えられないさびしさを、負うている傷の痛みよりも、より鋭く味わわされた。しかも、刻々衰えて行く視力には、次第に周囲の光景が、ぼんやりとかすんで来る。ただ、自分の上にひろがっている大きな夜の空と、その中にかかっている小さな白い月と、それよりほかのものは、何一つはっきりとわからない。
「おじいさん。」
 老婆は、血の交じった唾《つば》を、口の中にためながら、ささやくようにこう言うと、それなり恍惚《こうこつ》とした、失神の底に、――おそらくは、さめる時のない眠りの底に、昏々《こんこん》として沈んで行った。
 その時である。太郎は、そこを栗毛《くりげ》の裸馬にまたがって、血にまみれた太刀《たち》を、口にくわえながら、両の手に手綱《たづな》をとって、あらしのように通りすぎた。馬は言うまでもなく、沙金《しゃきん》が目をつけた、陸奥出《みちのくで》の三才駒《さんさいごま》であろう。すでに、盗人たちがちりぢりに、死人《しびと》を残して引き揚げた小路は、月に照らされて、さながら霜を置いたようにうす白《じろ》い。彼は、乱れた髪を微風に吹かせながら、馬上に頭《こうべ》をめぐらして、後《しりえ》にののしり騒ぐ人々の群れを、誇らかにながめやった。
 それも無理はない。彼は、味方の破れるのを見ると、よしや何物を得なくとも、この馬だけは奪おうと、かたく心に決したのである。そうして、その決心どおり、葛巻《つづらま》きの太刀《たち》をふるいふるい、手に立つ侍を切り払って、単身門の中に踏みこむと、苦もなく厩《うまや》の戸を蹴破《けやぶ
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