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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)猪熊《いのくま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)もう一年|前《まえ》の事だ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+(攵/羽)」、第3水準1-90-31]
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一
「おばば、猪熊《いのくま》のおばば。」
朱雀綾小路《すざくあやのこうじ》の辻《つじ》で、じみな紺の水干《すいかん》に揉烏帽子《もみえぼし》をかけた、二十《はたち》ばかりの、醜い、片目の侍が、平骨《ひらぼね》の扇を上げて、通りかかりの老婆を呼びとめた。――
むし暑く夏霞《なつがすみ》のたなびいた空が、息をひそめたように、家々の上をおおいかぶさった、七月のある日ざかりである。男の足をとめた辻には、枝のまばらな、ひょろ長い葉柳《はやなぎ》が一本、このごろはやる疫病《えやみ》にでもかかったかと思う姿で、形《かた》ばかりの影を地の上に落としているが、ここにさえ、その日にかわいた葉を動かそうという風はない。まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださっき通った牛車《ぎっしゃ》のわだちが長々とうねっているばかり、その車の輪にひかれた、小さな蛇《ながむし》も、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、いつか脂《あぶら》ぎった腹を上へ向けて、もう鱗《うろこ》一つ動かさないようになってしまった。どこもかしこも、炎天のほこりを浴びたこの町の辻で、わずかに一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこの蛇《ながむし》の切れ口から出た、なまぐさい腐れ水ばかりであろう。
「おばば。」
「……」
老婆は、あわただしくふり返った。見ると、年は六十ばかりであろう。垢《あか》じみた檜皮色《ひわだいろ》の帷子《かたびら》に、黄ばんだ髪の毛をたらして、尻《しり》の切れた藁草履《わらぞうり》をひきずりながら、長い蛙股《かえるまた》の杖《つえ》をついた、目の丸い、口の大きな、どこか蟇《ひき》の顔を思わせる、卑しげな女である。
「おや、太郎さんか。」
日の光にむせるような声で、こう言うと、老婆は、杖をひきずりながら、二足三足あとへ帰って、まず口を切る前に
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