》って、この馬の覊綱《はづな》を切るより早く、背に飛びのる間《ま》も惜しいように、さえぎるものをひづめにかけて、いっさんに宙を飛ばした。そのために受けた傷も、もとより数えるいとまはない。水干《すいかん》の袖《そで》はちぎれ、烏帽子《えぼし》はむなしく紐《ひも》をとどめて、ずたずたに裂かれた袴《はかま》も、なまぐさい血潮に染まっている。が、それも、太刀と鉾《ほこ》との林の中から、一人に会えば一人を切り、二人に会えば二人を切って、出て来た時の事を思えば、うれしくこそあれ、惜しくはない。――彼は、後ろを見返り見返り、晴れ晴れした微笑を、口角に漂わせながら、昂然《こうぜん》として、馬を駆った。
彼の念頭には、沙金がある。と同時にまた、次郎もある。彼は、みずから欺く弱さをしかりながら、しかもなお沙金《しゃきん》の心が再び彼に傾く日を、夢のように胸に描いた。自分でなかったなら、たれがこの馬をこの場合、奪う事ができるだろう。向こうには、人の和があった。しかも地の利さえ占めている。もし次郎だったとしたならば――彼の想像には、一瞬の間《あいだ》、侍たちの太刀《たち》の下に、切り伏せられている弟の姿が、浮かんだ。これは、もちろん、彼にとって、少しも不快な想像ではない。いやむしろ彼の中にあるある物は、その事実である事を、祈りさえした。自分の手を下さずに、次郎を殺す事ができるなら、それはひとり彼の良心を苦しめずにすむばかりではない。結果から言えば、沙金がそのために、自分を憎む恐れもなくなってしまう。そう思いながらも、彼は、さすがに自分の卑怯《ひきょう》を恥じた。そうして口にくわえた太刀を、右手《めて》にとって、おもむろに血をぬぐった。
そのぬぐった太刀を、ちょうど鞘《さや》におさめた時である。おりから辻《つじ》を曲がった彼は、行く手の月の中に、二十と言わず三十と言わず、群がる犬の数を尽くして、びょうびょうとほえ立てる声を聞いた。しかも、その中にただ一人、太刀をかざした人の姿が、くずれかかった築土《ついじ》を背負って、おぼろげながら黒く見える。と思う間《ま》に、馬は、高くいななきながら、長い鬣《たてがみ》をさっと振るうと、四つの蹄《ひづめ》に砂煙をまき上げて、またたく暇に太郎をそこへ疾風のように持って行った。
「次郎か。」
太郎は、我を忘れて、叫びながら、険しく眉《まゆ》をひそめて、弟
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