う》と刃《は》を合わせないうちに、見る見る、鉾先《ほこさき》がしどろになって、次第にあとへ下がってゆく。それがやがて小路のまん中まで、切り立てられて来たかと思うと、相手は、大きな声を出して、彼が持っていた鉾《ほこ》の柄《え》を、みごとに半ばから、切り折った。と、また一太刀《ひとたち》、今度は、右の肩先から胸へかけて、袈裟《けさ》がけに浴びせかける。猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、尻居《しりい》に倒れて、とび出しそうに大きく目を見ひらいたが、急に恐怖と苦痛とに堪えられなくなったのであろう、あわてて高這《たかば》いに這《は》いのきながら声をふるわせて、わめき立てた。
「だまし討ちじゃ。だまし討ちを、食らわせおった。助けてくれ。だまし討ちじゃ。」
赤あざの侍は、その後ろからまた、のび上がって、血に染んだ太刀《たち》をふりかざした。その時もし、どこからか猿《さる》のようなものが、走って来て、帷子《かたびら》の裾《すそ》を月にひるがえしながら、彼らの中へとびこまなかったとしたならば、猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、すでに、あえない最後を遂げていたのに相違ない。が、その猿《さる》のようなものは、彼と相手との間を押しへだてると、とっさに小刀《さすが》をひらめかして、相手の乳の下へ刺し通した。そうして、それとともに、相手の横に払った太刀《たち》をあびて、恐ろしい叫び声を出しながら、焼け火箸《ひばし》でも踏んだように、勢いよくとび上がると、そのまま、向こうの顔へしがみついて、二人いっしょにどうと倒れた。
それから、二人の間には、ほとんど人間とは思われない、猛烈なつかみ合いが、始まった。打つ。噛《か》む。髪をむしる。しばらくは、どちらがどちらともわからなかったが、やがて、猿のようなものが、上になると、再び小刀《さすが》がきらりと光って、組みしかれた男の顔は、痣《あざ》だけ元のように赤く残しながら、見ているうちに、色が変わった。すると、相手もそのまま、力が抜けたのか、侍の上へ折り重なって、仰向けにぐたりとなる――その時、始めて月の光にぬれながら、息も絶え絶えにあえいでいる、しわだらけの、蟇《ひき》に似た、猪熊のばばの顔が見えた。
老婆は、肩で息をしながら、侍の死体の上に横たわって、まだ相手の髻《もとどり》をとらえた、左の手もゆるめずに、しばらくは苦しそうな呻吟《しんぎん》の声をつづ
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