れて、加茂川にかかっている橋が、その白々《しらじら》とした水光《すずびか》りの上に、いつか暗く浮き上がって来た。
 ひとり加茂川ばかりではない。さっきまでは、目の下に黒く死人《しびと》のにおいを蔵していた京の町も、わずかの間《ま》に、つめたい光の鍍金《めっき》をかけられて、今では、越《こし》の国の人が見るという蜃気楼《かいやぐら》のように、塔の九輪や伽藍《がらん》の屋根を、おぼつかなく光らせながら、ほのかな明るみと影との中に、あらゆる物象を、ぼんやりとつつんでいる。町をめぐる山々も、日中のほとぼりを返しているのであろう、おのずから頂きをおぼろげな月明かりにぼかしながら、どの峰も、じっと物を思ってでもいるように、うすい靄《もや》の上から、静かに荒廃した町を見おろしている――と、その中で、かすかに凌霄花《のうぜんかずら》のにおいがした。門の左右を埋《うず》める藪《やぶ》のところどころから、簇々《そうそう》とつるをのばしたその花が、今では古びた門の柱にまといついて、ずり落ちそうになった瓦《かわら》の上や、蜘蛛《くも》の巣をかけた楹《たるき》の間へ、はい上がったのがあるからであろう。……
 窓によりかかった阿濃《あこぎ》は、鼻の穴を大きくして、思い入れ凌霄花のにおいを吸いながら、なつかしい次郎の事を、そうして、早く日の目を見ようとして、動いている胎児の事を、それからそれへと、とめどなく思いつづけた。――彼女は双親《ふたおや》を覚えていない。生まれた所の様子さえ、もう全く忘れている。なんでも幼い時に一度、この羅生門《らしょうもん》のような、大きな丹塗《にぬ》りの門の下を、たれかに抱くか、負われかして、通ったという記憶がある。が、これももちろん、どのくらいほんとうだか、確かな事はわからない。ただ、どうにかこうにか、覚えているのは、物心がついてからのちの事ばかりである。そうして、それがまた、覚えていないほうがよかったと思うような事ばかりである。ある時は、町の子供にいじめられて、五条の橋の上から河原へ、さかさまにつき落とされた。ある時は、飢えにせまってした盗みの咎《とが》で、裸のまま、地蔵堂の梁《うつばり》へつり上げられた。それがふと沙金《しゃきん》に助けられて、自然とこの盗人の群れにはいったが、それでも苦しい目にあう事は、以前と少しも変わりがない。白痴に近い天性を持って生まれた彼
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