太刀《たち》の上をおどり越えると、尾のない狐《きつね》に似た犬が、後ろから来て、肩をかすめる。血にぬれた口ひげが、ひやりと頬《ほお》にさわったかと思うと、砂だらけな足の毛が、斜めに眉《まゆ》の間をなでた。切ろうにも突こうにも、どれと相手を定める事ができない。前を見ても、後ろを見ても、ただ、青くかがやいている目と、絶えずあえいでいる口とがあるばかり、しかもその目とその口が、数限りもなく、道をうずめて、ひしひしと足もとに迫って来る。――次郎は、太刀《たち》を回しながら、急に、猪熊《いのくま》のばばの話を思い出した。「どうせ死ぬのなら一思いに死んだほうがいい。」彼は、そう心に叫んで、いさぎよく目をつぶったが、喉《のど》をかもうとする犬の息が、暖かく顔へかかると、思わずまた、目をあいて、横なぐりに太刀をふるった。何度それを繰り返したか、わからない。しかし、そのうちに、腕の力が、次第に衰えて来たのであろう、打つ太刀が、一太刀ごとに重くなった。今では踏む足さえ危うくなった。そこへ、切った犬の数よりも、はるかに多い野犬の群れが、あるいは芒原《すすきはら》の向こうから、あるいは築土《ついじ》のこわれをぬけて、続々として、つどって来る。――
 次郎は、絶望の目をあげて、天上の小さな月を一瞥《いちべつ》しながら、太刀を両手にかまえたまま、兄の事や沙金《しゃきん》の事を、一度に石火《せっか》のごとく、思い浮かべた。兄を殺そうとした自分が、かえって犬に食われて死ぬ。これより至極《しごく》な天罰はない。――そう思うと、彼の目には、おのずから涙が浮かんだ。が、犬はその間も、用捨はしない。さっきの狩犬の一頭が、ひらりと茶まだらな尾をふるったかと思うと、次郎はたちまち左の太腿《ふともも》に、鋭い牙《きば》の立ったのを感じた。
 するとその時である。月にほのめいた両京二十七坊の夜の底から、かまびすしい犬の声を圧してはるかに戞々《かつかつ》たる馬蹄《ばてい》の音が、風のように空へあがり始めた。……

          ―――――――――――――――――

 しかしその間も阿濃《あこぎ》だけは、安らかな微笑を浮かべながら、羅生門《らしょうもん》の楼上にたたずんで、遠くの月の出をながめている。東山の上が、うす明るく青んだ中に、ひでりにやせた月は、おもむろにさみしく、中空《なかぞら》に上ってゆく。それにつ
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