ら立てば立つほど、彼の打つ太刀は皆|空《くう》を切って、ややともすれば、足場を失わせようとする。犬は、そのすきに乗じて、熱い息を吐きながら、いよいよ休みなく肉薄した。もうこうなっては、ただ、窮余の一策しか残っていない。そこで、彼は、事によったら、犬が追いあぐんで、どこかに逃げ場ができるかもしれないという、一縷《いちる》の望みにたよりながら、打ちはずした太刀を引いて、おりから足をねらった犬の背を危うく向こうへとび越えると、月の光をたよりにして、ひた走りに走り出した。が、もとよりこの企ても、しょせんはおぼれようとするものが、藁《わら》でもつかむのと変わりはない。犬は、彼が逃げるのを見ると、ひとしくきりりと尾を巻いて、あと足に砂を蹴上《けあ》げながら真一文字に追いすがった。
が、彼のこの企ては、単に失敗したというだけの事ではない。実はそれがために、かえって虎口《ここう》にはいるような事ができたのである。――次郎は立本寺《りゅうほんじ》の辻《つじ》をきわどく西へ切れて、ものの二町と走るか走らないうちに、たちまち行く手の夜を破って、今自身を追っている犬の声より、より多くの犬の声が、耳を貫ぬいて起こるのを聞いた。それから、月に白《しら》んだ小路《こうじ》をふさいで、黒雲に足のはえたような犬の群れが、右往左往に入り乱れて、餌食《えじき》を争っているさまが見えた。最後に――それはほとんど寸刻のいとまもなかったくらいである。すばやく彼を駆けぬけた狩犬の一頭が、友を集めるように高くほえると、そこに狂っていた犬の群れは、ことごとく相呼び相答えて、一度に※[#「けものへん+言」、第4水準2−80−36]々《ぎんぎん》の声をあげながら、見る間に彼を、その生きて動く、なまぐさい毛皮の渦巻《うずま》きの中へ巻きこんだ。深夜、この小路に、こうまで犬の集まっていたのは、もとよりいつもある事ではない。次郎は、この廃都をわが物顔に、十二十と頭をそろえて、血のにおいに飢えて歩く、獰猛《どうもう》な野犬の群れが、ここに捨ててあった疫病《えやみ》の女を、宵《よい》のうちから餌食にして、互いに牙《きば》をかみながら、そのちぎれちぎれな肉や骨を、奪い合っているところへ、来たのである。
犬は、新しい餌食を見ると、一瞬のいとまもなく、あらしに吹かれて飛ぶ稲穂のように、八方から次郎へ飛びかかった。たくましい黒犬が、
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