腐れ水にぬれた尾が、ずるずるあごの下へたれる――と思うと、子供たちは、一度にわっとわめきながら、おびえたように、四方へ散った。
 今まで死んだようになっていた女が、その時急に、黄いろくたるんだまぶたをあけて、腐った卵の白味のような目を、どんより空《そら》に据《す》えながら、砂まぶれの指を一つびくりとやると、声とも息ともわからないものが、干割れたくちびるの奥のほうから、かすかにもれて来たからである。

       三

 猪熊《いのくま》のばばに別れた太郎は、時々扇で風を入れながら、日陰も選ばず、朱雀《すざく》の大路《おおじ》を北へ、進まない歩みをはこんだ。――
 日中の往来は、人通りもきわめて少ない。栗毛《くりげ》の馬に平文《ひらもん》の鞍《くら》を置いてまたがった武士が一人、鎧櫃《よろいびつ》を荷なった調度掛《ちょうどが》けを従えながら、綾藺笠《あやいがさ》に日をよけて、悠々《ゆうゆう》と通ったあとには、ただ、せわしない燕《つばくら》が、白い腹をひらめかせて、時々、往来の砂をかすめるばかり、板葺《いたぶき》、檜皮葺《ひわだぶき》の屋根の向こうに、むらがっているひでり雲《ぐも》も、さっきから、凝然と、金銀銅鉄を熔《と》かしたまま、小ゆるぎをするけしきはない。まして、両側に建て続いた家々は、いずれもしんと静まり返って、その板蔀《いたじとみ》や蒲簾《かますだれ》の後ろでは、町じゅうの人がことごとく、死に絶えてしまったかとさえ疑われる。――

 猪熊《いのくま》のばばの言ったように、沙金《しゃきん》を次郎に奪われるという恐れは、ようやく目の前に迫って来た。あの女が、――現在養父にさえ、身を任せたあの女が、あばたのある、片目の、醜いおれを、日にこそ焼けているが目鼻立ちの整った、若い弟に見かえるのは、もとよりなんの不思議もない。おれは、ただ、次郎が、――子供の時から、おれを慕ってくれたあの次郎が、おれの心もちを察してくれて、よしや沙金のほうから手を出してもその誘惑に乗らないだけの、慎みを持ってくれる事と、いちずに信じ切っていた。が、今になって考えれば、それは、弟を買いかぶった、虫のいい量見《りょうけん》に過ぎなかった。いや、弟を見上げすぎたというよりも、沙金のみだらな媚《こ》びのたくみを、見下げすぎた誤りだった。ひとり次郎ばかりではない。あの女のまなざし一つで、身を滅ぼした
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