男の数は、この炎天にひるがえる燕《つばくら》の数《かず》よりも、たくさんある。現にこう言うおれでさえ、ただ一度、あの女を見たばかりで、とうとう今のように、身をおとした。……

 すると四条坊門《しじょうぼうもん》の辻《つじ》を、南へやる赤糸毛《あかいとげ》の女車《おんなぐるま》が、静かに太郎の行く手を通りすぎる。車の中の人は見えないが、紅《べに》の裾濃《すそご》に染めた、すずしの下簾《したすだれ》が、町すじの荒涼としているだけに、ひときわ目に立ってなまめかしい。それにつき添った牛飼いの童《わらべ》と雑色《ぞうしき》とは、うさんらしく太郎のほうへ目をやったが、牛だけは、角《つの》をたれて、漆のように黒い背を鷹揚《おうよう》にうねらしながら、わき見もせずに、のっそりと歩いてゆく。しかしとりとめのない考えに沈んでいる太郎には、車の金具の、まばゆく日に光ったのが、わずかに目にはいっただけである。
 彼は、しばらく足をとめて、車を通りこさせてから、また片目を地に伏せて、黙々と歩きはじめた。――

(おれが右の獄《ひとや》の放免《ほうめん》をしていた時の事を思えば、今では、遠い昔のような、心もちがする。あの時のおれと今のおれとを比べれば、おれ自身にさえ、同じ人間のような気はしない。あのころのおれは、三宝を敬う事も忘れなければ、王法にしたがう事も怠らなかった。それが、今では、盗みもする。時によっては、火つけもする。人を殺した事も、二度や三度ではない。ああ、昔のおれは――仲間の放免といっしょになって、いつもの七半《しちはん》を打ちながら、笑い興じていた、あの昔のおれは、今のおれの目から見ると、どのくらいしあわせだったかわからない。
 考えれば、まだきのうのように思われるが、実はもう一年|前《まえ》になった。――あの女が、盗みの咎《とが》で、検非違使《けびいし》の手から、右の獄《ひとや》へ送られる。おれがそれと、ふとした事から、牢格子《ろうごうし》を隔てて、話し合うような仲になる。それから、その話が、だんだんたび重なって、いつか互いに身の上の事まで、打ち明け始める。とうとう、しまいには、猪熊《いのくま》のばばや同類の盗人が、牢《ろう》を破ってあの女を救い出すのを、見ないふりをして、通してやった。
 その晩から、おれは何度となく、猪熊のばばの家へ出はいりをした。沙金《しゃきん》は、おれ
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