しも、気をつけている。」
「気をつけていてもさ。」
老婆は、いささか、相手の感情の、この急激な変化に驚きながら、例のごとくくちびるをなめなめ、つぶやいた。
「気をつけていてもだわね。」
「しかし、兄きの思わくは兄きの思わくで、わたしには、どうにもできないじゃないか。」
「そう言えば、実《み》もふたもなくなるがさ。実はわたしは、きのう娘に会ったのだよ。すると、きょう未《ひつじ》の下刻《げこく》に、お前さんと寺の門の前で、会う事になっていると言うじゃないか。それで、お前さんのにいさんには半月近くも、顔は合わせないようにしているとね、太郎さんがこんな事を知ってごらん。また、お前さん、一悶着《ひともんちゃく》だろう。」
次郎は、老婆の※[#「女+尾」、第3水準1−15−81]々《びび》として説くことばをさえぎるように、黙って、いらだたしく何度もうなずいた。が、猪熊《いのくま》のばばは、容易に口を閉ざしそうなけしきもない。
「さっき、向こうの辻《つじ》で、太郎さんに会った時にも、わたしはよくそう言って来たけれどね、そうなりゃ、わたしたちの仲間だもの、すぐに刃物三昧《はものざんまい》だろうじゃないか。万一、その時のはずみで、娘にけがでもあったら、とわたしは、ただ、それが心配なのさ。娘は、なにしろあのとおりの気質だし、太郎さんにしても、一徹人《いってつじん》だから、わたしは、お前さんによく頼んでおこうと思ってね。お前さんは、死人《しびと》が犬に食われるのさえ、見ていられないほど、やさしいんだから。」
こう言って、老婆は、いつか自分にも起こって来た不安を、しいて消そうとするように、わざとしわがれた声で、笑って見せた。が、次郎は依然として、顔を暗くしながら、何か物思いにふけるように、目を伏せて歩いている。……
「大事《おおごと》にならなければいいが。」
猪熊《いのくま》のばばは、蛙股《かえるまた》の杖《つえ》を早めながら、この時始めて心の底で、しみじみこう、祈ったのである。
かれこれその時分の事である。楚《すわえ》の先に蛇《ながむし》の死骸《しがい》をひっかけた、町の子供が三四人、病人の小屋の外を通りかかると、中でもいたずらな一人が、遠くから及び腰になって、その蛇《ながむし》を女の顔の上へほうり上げた。青く脂《あぶら》の浮いた腹がぺたり、女の頬《ほお》に落ちて、それから、
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