かぬ聖賢はない。仏家の所謂《いわゆる》善巧方便とは畢竟《ひっきょう》精神上のマキアヴェリズムである。

   芸術至上主義者

 古来熱烈なる芸術至上主義者は大抵芸術上の去勢者である。丁度熱烈なる国家主義者は大抵亡国の民であるように――我我は誰でも我我自身の持っているものを欲しがるものではない。

   唯物史観

 若《も》し如何なる小説家もマルクスの唯物史観に立脚した人生を写さなければならぬならば、同様に又如何なる詩人もコペルニクスの地動説に立脚した日月山川を歌わなければならぬ。が、「太陽は西に沈み」と言う代りに「地球は何度何分|廻転《かいてん》し」と言うのは必しも常に優美ではあるまい。

   支那

 蛍の幼虫は蝸牛《かたつむり》を食う時に全然蝸牛を殺してはしまわぬ。いつも新らしい肉を食う為に蝸牛を麻痺《まひ》させてしまうだけである。我日本帝国を始め、列強の支那に対する態度は畢竟この蝸牛に対する蛍の態度と選ぶ所はない。

   又

 今日の支那の最大の悲劇は無数の国家的|羅曼《ローマン》主義者即ち「若き支那」の為に鉄の如き訓練を与えるに足る一人のムッソリニもいないことである。
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