らく》の似顔画を見たことを覚えている。その画中の人物は緑いろの光琳波《こうりんは》を描いた扇面を胸に開いていた。それは全体の色彩の効果を強めているのに違いなかった。が、廓大鏡《かくだいきょう》に覗《のぞ》いて見ると、緑いろをしているのは緑青《ろくしょう》を生じた金いろだった。わたしはこの一枚の写楽に美しさを感じたのは事実である。けれどもわたしの感じたのは写楽の捉《とら》えた美しさと異っていたのも事実である。こう言う変化は文章の上にもやはり起るものと思わなければならぬ。
又
芸術も女と同じことである。最も美しく見える為には一時代の精神的雰囲気[#「雰囲気」は底本では「雰雰囲気」]或は流行に包まれなければならぬ。
又
のみならず芸術は空間的にもやはり軛《くびき》を負わされている。一国民の芸術を愛する為には一国民の生活を知らなければならぬ。東禅寺に浪士の襲撃を受けた英吉利《イギリス》の特命全権公使サア・ルサアフォオド・オルコックは我我日本人の音楽にも騒音を感ずる許《ばか》りだった。彼の「日本に於ける三年間」はこう言う一節を含んでいる。――「我我は坂を登る途中、ナイティンゲエルの声に近い鶯《うぐいす》の声を耳にした。日本人は鶯に歌を教えたと言うことである。それは若《も》しほんとうとすれば、驚くべきことに違いない。元来日本人は音楽と言うものを自ら教えることも知らないのであるから。」(第二巻第二十九章)
天才
天才とは僅《わず》かに我我と一歩を隔てたもののことである。只《ただ》この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。
又
天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代は又その為に天才の前に香を焚《た》いている。
又
民衆も天才を認めることに吝《やぶさ》かであるとは信じ難い。しかしその認めかたは常に頗《すこぶ》る滑稽《こっけい》である。
又
天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心の好い名声」を与えられることである。
又
耶蘇《やそ》「我笛吹けども、汝等《なんじら》踊らず。」
彼等「我等踊れども、汝足らわず。」
※[#「言+
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