》言わざれども、下|自《おのずか》ら蹊《けい》を成す」とは確かに知者の言である。尤《もっと》も「桃李言わざれども」ではない。実は「桃李言わざれば[#「ざれば」に傍点]」である。
偉大
民衆は人格や事業の偉大に籠絡《ろうらく》されることを愛するものである。が、偉大に直面することは有史以来愛したことはない。
広告
「侏儒《しゅじゅ》の言葉」十二月号の「佐佐木茂索君の為に」は佐佐木君を貶《けな》したのではありません。佐佐木君を認めない批評家を嘲《あざけ》ったものであります。こう言うことを広告するのは「文芸春秋」の読者の頭脳を軽蔑《けいべつ》することになるのかも知れません。しかし実際或批評家は佐佐木君を貶したものと思いこんでいたそうであります。且《かつ》又この批評家の亜流も少くないように聞き及びました。その為に一言広告します。尤もこれを公にするのはわたくしの発意ではありません。実は先輩|里見※[#「弓+椁のつくり」、第3水準1−84−22]《さとみとん》君の煽動《せんどう》によった結果であります。どうかこの広告に憤る読者は里見君に非難を加えて下さい。「侏儒の言葉」の作者。
追加広告
前掲の広告中、「里見君に非難を加えて下さい」と言ったのは勿論《もちろん》わたしの常談《じょうだん》であります。実際は非難を加えずともよろしい。わたしは或批評家の代表する一団の天才に敬服した余り、どうも多少ふだんよりも神経質になったようであります。同上
再追加広告
前掲の追加広告中、「或批評家の代表する一団の天才に敬服した」と言うのは勿論反語と言うものであります。同上
芸術
画力は三百年、書力は五百年、文章の力は千古無窮とは王世貞《おうせいてい》の言う所である。しかし敦煌《とんこう》の発掘品等に徴すれば、書画は五百年を閲《けみ》した後にも依然として力を保っているらしい。のみならず文章も千古無窮に力を保つかどうかは疑問である。観念も時の支配の外に超然としていることの出来るものではない。我我の祖先は「神」と言う言葉に衣冠束帯の人物を髣髴《ほうふつ》していた。しかし我我は同じ言葉に髯《ひげ》の長い西洋人を髣髴している。これはひとり神に限らず、何ごとにも起り得るものと思わなければならぬ。
又
わたしはいつか東洲斎写楽《とうしゅうさいしゃ
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