《にゅうび》を食している。最後に難陀婆羅《なんだばら》と伝えられる牧牛の少女と話している。
政治的天才
古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。寧《むし》ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云うのである。少くとも民衆の意志であるかのように信ぜしめるものを云うのである。この故に政治的天才は俳優的天才を伴うらしい。ナポレオンは「荘厳と滑稽との差は僅《わず》かに一歩である」と云った。この言葉は帝王の言葉と云うよりも名優の言葉にふさわしそうである。
又
民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも抛《なげう》たないものである。唯民衆を支配する為には大義の仮面を用いなければならぬ。しかし一度用いたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱そうとすれば、如何なる政治的天才も忽《たちま》ち非命に仆《たお》れる外はない。つまり帝王も王冠の為におのずから支配を受けているのである。この故に政治的天才の悲劇は必ず喜劇をも兼ねぬことはない。たとえば昔|仁和寺《にんなじ》の法師の鼎《かなえ》をかぶって舞ったと云う「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。
恋は死よりも強し
「恋は死よりも強し」と云うのはモオパスサンの小説にもある言葉である。が、死よりも強いものは勿論天下に恋ばかりではない。たとえばチブスの患者などのビスケットを一つ食った為に知れ切った往生を遂げたりするのは食慾も死よりは強い証拠である。食慾の外にも数え挙げれば、愛国心とか、宗教的感激とか、人道的精神とか、利慾とか、名誉心とか、犯罪的本能とか――まだ死よりも強いものは沢山あるのに相違ない。つまりあらゆる情熱は死よりも強いものなのであろう。(勿論死に対する情熱は例外である。)且《か》つ又恋はそう云うもののうちでも、特に死よりも強いかどうか、迂濶《うかつ》に断言は出来ないらしい。一見、死よりも強い恋と見做《みな》され易い場合さえ、実は我我を支配しているのは仏蘭西人《フランスじん》の所謂《いわゆる》ボヴァリスムである。我我自身を伝奇の中の恋人のように空想するボヴァリイ夫人以来の感傷主義である。
地獄
人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与える苦しみ
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