は一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、腸加太児《ちょうカタル》の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕《お》ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟《とっさ》の間に餓鬼道の飯も掠《かす》め得るであろう。況《いわん》や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別|跋渉《ばっしょう》の苦しみを感じないようになってしまう筈《はず》である。

   醜聞

 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件《びゃくれんじけん》、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモンはこれに答えている。――
「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」
 グルモンの答は中《あた》っている。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦《きょうだ》を弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。

   又

 天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。

   輿論

 輿論《よろん》は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。

   又

 輿論の存在に価する理由は唯《ただ》輿論を蹂躙《じゅうりん》する興味を与えることばかりである。

   敵意

 敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快《そうかい》であり、且《かつ》又健康を保つ上には何びとにも絶対に必要である。

   ユウトピア

 完
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