いますが、何分文字が読めませんので、そのまま通りすぎようと致しました時、折よく向うから偏衫《へんさん》を着た法師が一人、通りかかったものでございますから、頼んで読んで貰いますと、何しろ『三月三日この池より竜昇らんずるなり』で、――誰でもこれには驚いたでございましょう。その婆さんも呆気《あっけ》にとられて、曲った腰をのしながら、『この池に竜などが居りましょうかいな。』と、とぼんと法師の顔を見上げますと、法師は反って落ち着き払って、『昔、唐《から》のある学者が眉《まゆ》の上に瘤《こぶ》が出来て、痒《かゆ》うてたまらなんだ事があるが、ある日一天|俄《にわか》に掻き曇って、雷雨車軸を流すがごとく降り注《そそ》いだと見てあれば、たちまちその瘤がふっつと裂けて、中から一匹の黒竜が雲を捲いて一文字に昇天したと云う話もござる。瘤の中にさえ竜が居たなら、ましてこれほどの池の底には、何十匹となく蛟竜《こうりゅう》毒蛇が蟠《わだかま》って居ようも知れぬ道理《ことわり》じゃ。』と、説法したそうでございます。何しろ出家に妄語《もうご》はないと日頃から思いこんだ婆さんの事でございますから、これを聞いて肝《きも》を
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