へん+丑」、第4水準2−12−93]《よじ》って、憎々《にくにく》しげにふり返りますと、まるで法論でもしかけそうな勢いで、『それとも竜が天上すると申す、しかとした証拠がござるかな。』と問い詰《つめ》るのでございます。そこで恵印はわざと悠々と、もう朝日の光がさし始めた池の方を指さしまして、『愚僧の申す事が疑わしければ、あの采女柳《うねめやなぎ》の前にある高札《こうさつ》を読まれたがよろしゅうござろう。』と、見下《みくだ》すように答えました。これにはさすがに片意地な恵門も、少しは鋒《ほこさき》を挫かれたのか、眩《まぶ》しそうな瞬《またた》きを一つすると、『ははあ、そのような高札《こうさつ》が建ちましたか。』と気のない声で云い捨てながら、またてくてくと歩き出しましたが、今度は鉢の開いた頭を傾けて、何やら考えて行くらしいのでございます。その後姿を見送った鼻蔵人《はなくろうど》の可笑《おか》しさは、大抵御推察が参りましょう。恵印《えいん》はどうやら赤鼻の奥がむず痒《がゆ》いような心もちがして、しかつめらしく南大門《なんだいもん》の石段を上って行く中にも、思わず吹き出さずには居られませんでした。
「その朝でさえ『三月三日この池より竜昇らんずるなり』の建札は、これほどの利《き》き目がございましたから、まして一日二日と経って見ますと、奈良の町中どこへ行っても、この猿沢《さるさわ》の池の竜の噂《うわさ》が出ない所はございません。元より中には『あの建札も誰かの悪戯《いたずら》であろう。』など申すものもございましたが、折から京では神泉苑《しんせんえん》の竜が天上致したなどと申す評判もございましたので、そう云うものさえ内心では半信半疑と申しましょうか、事によるとそんな大変があるかも知れないぐらいな気にはなって居ったのでございます。するとここにまた思いもよらない不思議が起ったと申しますのは、春日《かすが》の御社《おやしろ》に仕えて居りますある禰宜《ねぎ》の一人娘で、とって九つになりますのが、その後《のち》十日と経たない中に、ある夜母の膝を枕にしてうとうとと致して居りますと、天から一匹の黒竜が雲のように降って来て、『わしはいよいよ三月三日に天上する事になったが、決してお前たち町のものに迷惑はかけない心算《つもり》だから、どうか安心していてくれい。』と人語を放って申しました。そこで娘は目がさめる
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