とすぐにこれこれこうこうと母親に話しましたので、さては猿沢の池の竜が夢枕《ゆめまくら》に立ったのだと、たちまちまたそれが町中の大《おお》評判になったではございませんか。こうなると話にも尾鰭《おひれ》がついて、やれあすこの稚児《ちご》にも竜が憑《つ》いて歌を詠んだの、やれここの巫女《かんなぎ》にも竜が現れて託宣《たくせん》をしたのと、まるでその猿沢の池の竜が今にもあの水の上へ、首でも出しそうな騒ぎでございます。いや、首までは出しも致しますまいが、その中に竜の正体を、目《ま》のあたりにしかと見とどけたと申す男さえ出て参りました。これは毎朝川魚を市《いち》へ売りに出ます老爺《おやじ》で、その日もまだうす暗いのに猿沢の池へかかりますと、あの采女柳《うねめやなぎ》の枝垂《しだ》れたあたり、建札のある堤《つつみ》の下に漫々と湛えた夜明け前の水が、そこだけほんのりとうす明《あかる》く見えたそうでございます。何分にも竜の噂がやかましい時分でございますから、『さては竜神《りゅうじん》の御出ましか。』と、嬉しいともつかず、恐しいともつかず、ただぶるぶる胴震《どうぶる》いをしながら、川魚の荷をそこへ置くなり、ぬき足にそっと忍び寄ると、采女柳につかまって、透《す》かすように、池を窺いました。するとそのほの明《あかる》い水の底に、黒金《くろがね》の鎖を巻いたような何とも知れない怪しい物が、じっと蟠《わだかま》って居りましたが、たちまち人音《ひとおと》に驚いたのか、ずるりとそのとぐろをほどきますと、見る見る池の面《おもて》に水脈《みお》が立って、怪しい物の姿はどことも知れず消え失せてしまったそうでございます。が、これを見ました老爺《おやじ》は、やがて総身《そうしん》に汗をかいて、荷を下した所へ来て見ますと、いつの間にか鯉鮒《こいふな》合せて二十|尾《び》もいた商売物《あきないもの》がなくなっていたそうでございますから、『大方《おおかた》劫《こう》を経た獺《かわおそ》にでも欺《だま》されたのであろう。』などと哂《わら》うものもございました。けれども中には『竜王が鎮護遊ばすあの池に獺の棲《す》もう筈もないから、それはきっと竜王が魚鱗《うろくず》の命を御憫《おあわれ》みになって、御自分のいらっしゃる池の中へ御召し寄せなすったのに相違ない。』と申すものも、思いのほか多かったようでございます。
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