は鼻蔵《はなくら》の恵印法師《えいんほうし》で、『三月三日この池より竜昇らんずるなり』の建札が大評判になるにつけ、内々《ないない》あの大鼻をうごめかしては、にやにや笑って居りましたが、やがてその三月三日も四五日の中に迫って参りますと、驚いた事には摂津《せっつ》の国|桜井《さくらい》にいる叔母の尼が、是非その竜の昇天を見物したいと申すので、遠い路をはるばると上って参ったではございませんか。これには恵印も当惑して、嚇《おど》すやら、賺《すか》すやら、いろいろ手を尽して桜井へ帰って貰おうと致しましたが、叔母は、『わしもこの年じゃで、竜王《りゅうおう》の御姿をたった一目拝みさえすれば、もう往生しても本望じゃ。』と、剛情にも腰を据えて、甥の申す事などには耳を借そうとも致しません。と申してあの建札は自分が悪戯《いたずら》に建てたのだとも、今更白状する訳には参りませんから、恵印もとうとう我《が》を折って、三月三日まではその叔母の世話を引き受けたばかりでなく、当日は一しょに竜神《りゅうじん》の天上する所を見に行くと云う約束までもさせられました。さてこうなって考えますと、叔母の尼さえ竜の事を聞き伝えたのでございますから、大和《やまと》の国内は申すまでもなく、摂津の国、和泉《いずみ》の国、河内《かわち》の国を始めとして、事によると播磨《はりま》の国、山城《やましろ》の国、近江《おうみ》の国、丹波《たんば》の国のあたりまでも、もうこの噂が一円《いちえん》にひろまっているのでございましょう。つまり奈良の老若《ろうにゃく》をかつごうと思ってした悪戯が、思いもよらず四方《よも》の国々で何万人とも知れない人間を瞞《だま》す事になってしまったのでございます。恵印はそう思いますと、可笑《おか》しいよりは何となく空恐しい気が先に立って、朝夕《あさゆう》叔母の尼の案内がてら、つれ立って奈良の寺々を見物して歩いて居ります間も、とんと検非違使《けびいし》の眼を偸《ぬす》んで、身を隠している罪人のような後《うしろ》めたい思いがして居りました。が、時々往来のものの話などで、あの建札へこの頃は香花《こうげ》が手向《たむ》けてあると云う噂を聞く事でもございますと、やはり気味の悪い一方では、一《ひと》かど大手柄でも建てたような嬉しい気が致すのでございます。
「その内に追い追い日数《ひかず》が経って、とうとう竜の天上す
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