消しますまい事か、『成程そう承りますれば、どうやらあの辺の水の色が怪しいように見えますわいな。』で、まだ三月三日にもなりませんのに、法師を独り後に残して、喘《あえ》ぎ喘ぎ念仏を申しながら、竹杖をつく間《ま》もまだるこしそうに急いで逃げてしまいました。後で人目がございませんでしたら、腹を抱えたかったのはこの法師で――これはそうでございましょう。実はあの発頭人《ほっとうにん》の得業《とくごう》恵印《えいん》、諢名《あだな》は鼻蔵《はなくら》が、もう昨夜《ゆうべ》建てた高札《こうさつ》にひっかかった鳥がありそうだくらいな、はなはだ怪しからん量見で、容子《ようす》を見ながら、池のほとりを、歩いて居ったのでございますから。が、婆さんの行った後には、もう早立ちの旅人と見えて、伴《とも》の下人《げにん》に荷を負わせた虫の垂衣《たれぎぬ》の女が一人、市女笠《いちめがさ》の下から建札を読んで居るのでございます。そこで恵印は大事をとって、一生懸命笑を噛み殺しながら、自分も建札の前に立って一応読むようなふりをすると、あの大鼻の赤鼻をさも不思議そうに鳴らして見せて、それからのそのそ興福寺《こうふくじ》の方へ引返して参りました。
「すると興福寺の南大門《なんだいもん》の前で、思いがけなく顔を合せましたのは、同じ坊に住んで居った恵門《えもん》と申す法師でございます。それが恵印《えいん》に出会いますと、ふだんから片意地なげじげじ眉をちょいとひそめて、『御坊《ごぼう》には珍しい早起きでござるな。これは天気が変るかも知れませぬぞ。』と申しますから、こちらは得たり賢しと鼻を一ぱいににやつきながら、『いかにも天気ぐらいは変るかも知れませぬて。聞けばあの猿沢の池から三月三日には、竜が天上するとか申すではござらぬか。』と、したり顔に答えました。これを聞いた恵門は疑わしそうに、じろりと恵印の顔を睨《ね》めましたが、すぐに喉を鳴らしながらせせら笑って、『御坊は善い夢を見られたな。いやさ、竜の天上するなどと申す夢は吉兆じゃとか聞いた事がござる。』と、鉢《はち》の開《ひら》いた頭を聳《そびや》かせたまま、行きすぎようと致しましたが、恵印はまるで独り言のように、『はてさて、縁無き衆生《しゅじょう》は度《ど》し難しじゃ。』と、呟《つぶや》いた声でも聞えたのでございましょう。麻緒《あさお》の足駄《あしだ》の歯を※[#「て
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