声が起り始めた。と云うのは、あれほど発音の妙を極めた先生も、いざ翻訳をするとなると、ほとんど日本人とは思われないくらい、日本語の数を知っていない。あるいは知っていても、その場に臨んでは急には思い出せないのであろう。たとえばたった一行を訳するにしても、「そこでロビンソン・クルウソオは、とうとう飼う事にしました。何を飼う事にしたかと云えば、それ、あの妙な獣《けだもの》で――動物園に沢山いる――何と云いましたかね、――ええとよく芝居をやる――ね、諸君も知っているでしょう。それ、顔の赤い――何、猿? そうそう、その猿です。その猿を飼う事にしました。」
勿論猿でさえこのくらいだから、少し面倒な語《ことば》になると、何度もその周囲を低徊した揚句でなければ、容易に然るべき訳語にはぶつからない。しかも毛利先生はその度にひどく狼狽《ろうばい》して、ほとんどあの紫の襟飾《ネクタイ》を引きちぎりはしないかと思うほど、頻《しきり》に喉元《のどもと》へ手をやりながら、当惑そうな顔をあげて、慌《あわただ》しく自分たちの方へ眼を飛ばせる。と思うとまた、両手で禿《は》げ頭を抑えながら、机の上へ顔を伏せて、いかにも面
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