かを、常に哀願しているような、傷《いた》ましい目《ま》なざしだけであった。
 自分は眼を伏せたまま、給仕の手から伝票を受けとると、黙ってカッフェの入口にある帳場《ちょうば》の前へ勘定に行った。帳場には自分も顔馴染《かおなじ》みの、髪を綺麗に分けた給仕頭《きゅうじがしら》が、退屈そうに控えている。
「あすこに英語を教えている人がいるだろう。あれはこのカッフェで頼んで教えて貰うのかね。」
 自分は金を払いながら、こう尋ねると、給仕頭は戸口の往来を眺めたまま、つまらなそうな顔をして、こんな答を聞かせてくれた。
「何、頼んだ訳《わけ》じゃありません。ただ、毎晩やって来ちゃ、ああやって、教えているんです。何でももう老朽《ろうきゅう》の英語の先生だそうで、どこでも傭《やと》ってくれないんだって云いますから、大方暇つぶしに来るんでしょう。珈琲一杯で一晩中、坐りこまれるんですから、こっちじゃあんまり難有《ありがた》くもありません。」
 これを聞くと共に自分の想像には、咄嗟《とっさ》に我毛利先生の知られざる何物かを哀願している、あの眼つきが浮んで来た。ああ、毛利先生。今こそ自分は先生を――先生の健気《け
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