なげ》な人格を始めて髣髴《ほうふつ》し得たような心もちがする。もし生れながらの教育家と云うものがあるとしたら、先生は実にそれであろう。先生にとって英語を教えると云う事は、空気を呼吸すると云う事と共に、寸刻といえども止《や》める事は出来ない。もし強《し》いて止めさせれば、丁度水分を失った植物か何かのように、先生の旺盛《おうせい》な活力も即座に萎微《いび》してしまうのであろう。だから先生は夜毎に英語を教えると云うその興味に促されて、わざわざ独りこのカッフェへ一杯の珈琲を啜《すす》りに来る。勿論それはあの給仕頭《きゅうじがしら》などに、暇つぶしを以て目《もく》さるべき悠長な性質のものではない。まして昔、自分たちが、先生の誠意を疑って、生活のためと嘲《あざけ》ったのも、今となっては心から赤面のほかはない誤謬《ごびゅう》であった。思えばこの暇つぶしと云い生活のためと云う、世間の俗悪な解釈のために、我毛利先生はどんなにか苦しんだ事であろう。元よりそう云う苦しみの中にも、先生は絶えず悠然たる態度を示しながら、あの紫の襟飾《ネクタイ》とあの山高帽《やまたかぼう》とに身を固めて、ドン・キホオテよりも勇ま
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