する温情が意識の表面へ浮んで来た。一そ自分もあすこへ行って、先生と久闊《きゅうかつ》を叙し合おうか。が、多分先生は、たった一学期の短い間、教室だけで顔を合せた自分なぞを覚えていまい。よしまた覚えているとしても――自分は卒然《そつぜん》として、当時自分たちが先生に浴びせかけた、悪意のある笑い声を思い出すと、結局|名乗《なのり》なぞはあげない方が、遥《はるか》に先生を尊敬する所以《ゆえん》だと思い直した。そこで珈琲《コオヒイ》が尽きたのを機会《しお》にして、短くなった葉巻を捨てながら、そっと卓《テエブル》から立上ると、それが静にした心算《つもり》でも、やはり先生の注意を擾《みだ》したのであろう。自分が椅子を離れると同時に、先生はあの血色の悪い丸顔を、あのうすよごれた折襟を、あの紫の襟飾《ネクタイ》を、一度にこちらへふり向けた。家畜《かちく》のような先生の眼と自分の眼とが、鏡の中で刹那《せつな》の間《あいだ》出会ったのは正にこの時である。が、先生の眼の中には、さっき自分が予想した通り、果して故人に遇ったと云う気色《けしき》らしいものも浮んでいない。ただ、そこに閃いていたものは、例の如く何もの
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