塗りの扉《ドア》、壁にかけた音楽会の広告なぞが、舞台面の一部でも見るように、はっきりと寒く映《うつ》っている。いや、まだそのほかにも、大理石の卓《テエブル》が見えた。大きな針葉樹の鉢も見えた。天井から下った電燈も見えた。大形な陶器の瓦斯煖炉《ガスだんろ》も見えた。その煖炉の前を囲んで、しきりに何か話している三四人の給仕の姿も見えた。そうして――こう自分が鏡の中の物象を順々に点検して、煖炉の前に集まっている給仕たちに及んだ時である。自分は彼等に囲まれながら、その卓に向っている一人の客の姿に驚かされた。それが、今まで自分の注意に上らなかったのは、恐らく周囲の給仕にまぎれて、無意識にカッフェの厨丁《コック》か何かと思いこんでいたからであろう。が、その時、自分が驚いたのは、何もいないと思った客が、いたと云うばかりではない。鏡の中に映っている客の姿が、こちらへは僅に横顔しか見せていないにも関らず、あの駝鳥《だちょう》の卵のような、禿《は》げ頭の恰好と云い、あの古色蒼然としたモオニング・コオトの容子《ようす》と云い、最後にあの永遠に紫な襟飾《ネクタイ》の色合いと云い、我《わが》毛利《もうり》先生だ
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