ですか。」
「毛利先生が電車の吊皮《つりかわ》につかまっていられるのを見たら、毛糸の手袋が穴だらけだったって云う話です。」
 自分たちは丹波先生を囲んで、こんな愚にもつかない事を、四方からやかましく饒舌《しゃべ》り立てた。ところがそれに釣りこまれたのか、自分たちの声が一しきり高くなると、丹波先生もいつか浮き浮きした声を出して、運動帽を指の先でまわしながら、
「それよりかさ、あの帽子が古物《こぶつ》だぜ――」と、思わず口へ出して云いかけた、丁度その時である。機械体操場と向い合って、わずかに十歩ばかり隔っている二階建の校舎の入口へ、どう思ったか毛利《もうり》先生が、その古物の山高帽《やまたかぼう》を頂いて、例の紫の襟飾《ネクタイ》へ仔細《しさい》らしく手をやったまま、悠然として小さな体を現した。入口の前には一年生であろう、子供のような生徒が六七人、人馬《ひとうま》か何かして遊んでいたが、先生の姿を見ると、これは皆先を争って、丁寧に敬礼する。毛利先生もまた、入口の石段の上にさした日の光の中に佇《たたず》んで、山高帽をあげながら笑って礼を返しているらしい。この景色を見た自分たちは、さすがに皆一
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