騒々しく机の蓋《ふた》を明けたり閉めたりさせる音、それから教壇へとび上って、毛利先生の身ぶりや声色《こわいろ》を早速使って見せる生徒――ああ、自分はまだその上に組長の章《しるし》をつけた自分までが、五六人の生徒にとり囲まれて、先生の誤訳を得々《とくとく》と指摘していたと云う事実すら、思い出さなければならないのであろうか。そうしてその誤訳は? 自分は実際その時でさえ、果してそれがほんとうの誤訳かどうか、確かな事は何一つわからずに威張《いば》っていたのである。

       ―――――――――――――――――――――――――

 それから三四日|経《へ》たある午《ひる》の休憩時間である。自分たち五六人は、機械体操場の砂だまりに集まって、ヘルの制服の背を暖い冬の日向《ひなた》に曝《さら》しながら、遠からず来《きた》るべき学年試験の噂《うわさ》などを、口まめにしゃべり交していた。すると今まで生徒と一しょに鉄棒へぶら下っていた、体量十八貫と云う丹波《たんば》先生が、「一二、」と大きな声をかけながら、砂の上へ飛び下りると、チョッキばかりに運動帽をかぶった姿を、自分たちの中に現して、
「どうだね、今度来た毛利《もうり》先生は。」と云う。丹波先生はやはり自分たちの級に英語を教えていたが、有名な運動好きで、兼ねて詩吟《しぎん》が上手だと云う所から、英語そのものは嫌っていた柔剣道の選手などと云う豪傑連の間にも、大分《だいぶ》評判がよかったらしい。そこで先生がこう云うと、その豪傑連の一人がミットを弄《もてあそ》びながら、
「ええ、あんまり――何です。皆《みんな》あんまり、よく出来ないようだって云っています。」と、柄《がら》にもなくはにかんだ返事をした。すると丹波先生はズボンの砂を手巾《ハンケチ》ではたきながら、得意そうに笑って見せて、
「お前よりも出来ないか。」
「そりゃ僕より出来ます。」
「じゃ、文句を云う事はないじゃないか。」
 豪傑はミットをはめた手で頭を掻きながら、意気地《いくじ》なくひっこんでしまった。が、今度は自分の級の英語の秀才が、度の強い近眼鏡をかけ直すと、年に似合わずませた調子で、
「でも先生、僕たちは大抵《たいてい》専門学校の入学試験を受ける心算《つもり》なんですから、出来る上にも出来る先生に教えて頂きたいと思っているんです。」と、抗弁した。が、丹波先生は不相変《あいかわらず》勇壮に笑いながら、
「何、たった一学期やそこいら、誰に教わったって同じ事さ。」
「じゃ毛利先生は一学期だけしか御教えにならないんですか。」
 この質問には丹波先生も、いささか急所をつかれた感があったらしい。世故《せこ》に長けた先生はそれにはわざと答えずに、運動帽を脱《ぬ》ぎながら、五分刈《ごぶがり》の頭の埃《ほこり》を勢よく払い落すと、急に自分たち一同を見渡して、
「そりゃ毛利先生は、随分古い人だから、我々とは少し違っているさ。今朝も僕が電車へ乗ったら、先生は一番まん中にかけていたっけが、乗換えの近所になると、『車掌、車掌』って声をかけるんだ。僕は可笑《おか》しくって、弱ったがね。とにかく一風変《いっぷうかわ》った人には違いないさ。」と、巧《たくみ》に話頭を一転させてしまった。が、毛利先生のそう云う方面に関してなら、何も丹波先生を待たなくとも、自分たちの眼を駭《おどろ》かせた事は、あり余るほど沢山ある。
「それから毛利先生は、雨が降ると、洋服へ下駄《げた》をはいて来られるそうです。」
「あのいつも腰に下っている、白い手巾《ハンカチ》へ包んだものは、毛利先生の御弁当じゃないんですか。」
「毛利先生が電車の吊皮《つりかわ》につかまっていられるのを見たら、毛糸の手袋が穴だらけだったって云う話です。」
 自分たちは丹波先生を囲んで、こんな愚にもつかない事を、四方からやかましく饒舌《しゃべ》り立てた。ところがそれに釣りこまれたのか、自分たちの声が一しきり高くなると、丹波先生もいつか浮き浮きした声を出して、運動帽を指の先でまわしながら、
「それよりかさ、あの帽子が古物《こぶつ》だぜ――」と、思わず口へ出して云いかけた、丁度その時である。機械体操場と向い合って、わずかに十歩ばかり隔っている二階建の校舎の入口へ、どう思ったか毛利《もうり》先生が、その古物の山高帽《やまたかぼう》を頂いて、例の紫の襟飾《ネクタイ》へ仔細《しさい》らしく手をやったまま、悠然として小さな体を現した。入口の前には一年生であろう、子供のような生徒が六七人、人馬《ひとうま》か何かして遊んでいたが、先生の姿を見ると、これは皆先を争って、丁寧に敬礼する。毛利先生もまた、入口の石段の上にさした日の光の中に佇《たたず》んで、山高帽をあげながら笑って礼を返しているらしい。この景色を見た自分たちは、さすがに皆一
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