種の羞恥《しゅうち》を感じて、しばらくの間はひっそりと、賑《にぎやか》な笑い声を絶ってしまった。が、その中で丹波先生だけは、ただ、口を噤《つぐ》むべく余りに恐縮と狼狽《ろうばい》とを重ねたからでもあったろう。「あの帽子が古物だぜ」と、云いかけた舌をちょいと出して、素早く運動帽をかぶったと思うと、突然くるりと向きを変えて、「一――」と大きく喚《わめ》きながら、チョッキ一つの肥った体を、やにわに鉄棒へ抛りつけた。そうして「海老上《えびあが》り」の両足を遠く空ざまに伸しながら、「二――」と再び喚いた時には、もう冬の青空を鮮《あざやか》に切りぬいて、楽々とその上に上《あが》っていた。この丹波先生の滑稽なてれ隠しが、自分たち一同を失笑させたのは無理もない。一瞬間声を呑んだ機械体操場の生徒たちは、鉄棒の上の丹波先生を仰ぎながら、まるで野球の応援でもする時のように、わっと囃《はや》し立てながら、拍手をした。
こう云う自分も皆と一しょに、喝采《かっさい》をしたのは勿論である。が、喝采している内に、自分は鉄棒の上の丹波先生を、半ば本能的に憎み出した。と云ってもそれだけまた、毛利先生に同情を注いだと云う訳でもない。その証拠にはその時自分が、丹波先生へ浴びせた拍手は、同時に毛利先生へ、自分たちの悪意を示そうと云う、間接目的を含んでいたからである。今自分の頭で解剖すれば、その時の自分の心もちは、道徳の上で丹波先生を侮蔑《ぶべつ》すると共に、学力の上では毛利先生も併せて侮蔑していたとでも説明する事が出来るかも知れない。あるいはその毛利先生に対する侮蔑は、丹波先生の「あの帽子が古物《こぶつ》だぜ」によって、一層然るべき裏書きを施《ほどこ》されたような、ずうずうしさを加えていたとも考える事が出来るであろう。だから自分は喝采しながら、聳《そびや》かした肩越しに、昂然として校舎の入口を眺めやった。するとそこには依然として、我《わが》毛利先生が、まるで日の光を貪《むさぼ》っている冬蠅《ふゆばい》か何かのように、じっと石段の上に佇《たたず》みながら、一年生の無邪気な遊戯を、余念もなく独り見守っている。その山高帽子とその紫の襟飾《ネクタイ》と――自分は当時、むしろ、哂《わら》うべき対象として、一瞥の中《うち》に収めたこの光景が、なぜか今になって見ると、どうしてもまた忘れる事が出来ない。……
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就任の当日|毛利《もうり》先生が、その服装と学力とによって、自分たちに起させた侮蔑《ぶべつ》の情は、丹波《たんば》先生のあの失策(?)があって以来、いよいよ級全体に盛《さか》んになった。すると、また、それから一週間とたたないある朝の事である。その日は前夜から雪が降りつづけて、窓の外にさし出ている雨天体操場の屋根などは、一面にもう瓦の色が見えなくなってしまったが、それでも教室の中にはストオヴが、赤々《あかあか》と石炭の火を燃え立たせて、窓|硝子《ガラス》につもる雪さえ、うす青い反射の光を漂わす暇《ひま》もなく、溶《と》けて行った。そのストオヴの前に椅子を据えながら、毛利先生は例の通り、金切声《かなきりごえ》をふりしぼって、熱心にチョイス・リイダアの中にあるサアム・オヴ・ライフを教えていたが、勿論誰も真面目《まじめ》になって、耳を傾けている生徒はない。ない所か、自分の隣にいる、ある柔道の選手の如きは、読本《とくほん》の下へ武侠世界《ぶきょうせかい》をひろげて、さっきから押川春浪《おしかわしゅんろう》の冒険小説を読んでいる。
それがかれこれ二三十分も続いたであろう。その中に毛利先生は、急に椅子《いす》から身を起すと、丁度今教えているロングフェロオの詩にちなんで、人生と云う問題を弁じ出した。趣旨はどんな事だったか、さらに記憶に残っていないが、恐らくは議論と云うよりも、先生の生活を中心とした感想めいたものだったと思う。と云うのは先生が、まるで羽根を抜かれた鳥のように、絶えず両手を上げ下げしながら、慌《あわただ》しい調子で饒舌《しゃべ》った中に、
「諸君にはまだ人生はわからない。ね。わかりたいったって、わかりはしません。それだけ諸君は幸福なんでしょう。我々になると、ちゃんと人生がわかる。わかるが苦しい事が多いです。ね。苦しい事が多い。これで私《わたくし》にしても、子供が二人ある。そら、そこで学校へ上げなければならない。上げれば――ええと――上げれば――学資? そうだ。その学資が入《い》るでしょう。ね。だから中々苦しい事が多い……」と云うような文句のあった事を、かすかに覚えているからである。が、何も知らない中学生に向ってさえ、生活難を訴《うった》える――あるいは訴えない心算《つもり》でも訴えている、先生の心もちなぞと云
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