毛利先生
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)歳晩《さいばん》のある暮方
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)急性|肺炎《はいえん》で
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]
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歳晩《さいばん》のある暮方、自分は友人の批評家と二人で、所謂《いわゆる》腰弁街道《こしべんかいどう》の、裸になった並樹の柳の下を、神田橋《かんだばし》の方へ歩いていた。自分たちの左右には、昔、島崎藤村《しまざきとうそん》が「もっと頭《かしら》をあげて歩け」と慷慨《こうがい》した、下級官吏らしい人々が、まだ漂《ただよ》っている黄昏《たそがれ》の光の中に、蹌踉《そうろう》たる歩みを運んで行く。期せずして、同じく憂鬱な心もちを、払いのけようとしても払いのけられなかったからであろう。自分たちは外套《がいとう》の肩をすり合せるようにして、心もち足を早めながら、大手町《おおてまち》の停留場《ていりゅうば》を通りこすまでは、ほとんど一言《ひとこと》もきかずにいた。すると友人の批評家が、あすこの赤い柱の下に、電車を待っている人々の寒むそうな姿を一瞥すると、急に身ぶるいを一つして、
「毛利《もうり》先生の事を思い出す。」と、独り語《ごと》のように呟《つぶや》いた。
「毛利先生と云うのは誰だい。」
「僕の中学の先生さ。まだ君には話した事がなかったかな。」
自分は否《いな》と云う代りに、黙って帽子の庇《ひさし》を下げた。これから下《しも》に掲げるのはその時その友人が、歩きながら自分に話してくれた、その毛利先生の追憶《ついおく》である。――
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もうかれこれ十年ばかり以前、自分がまだある府立中学の三年級にいた時の事である。自分の級に英語を教えていた、安達《あだち》先生と云う若い教師が、インフルエンザから来た急性|肺炎《はいえん》で冬期休業の間に物故《ぶっこ》してしまった。それが余り突然だったので、適当な後任を物色する余裕がなかったからの窮策《きゅうさく》であろう。自分の中学は、当時ある私立中学で英語の教師を勤めていた、毛利《もうり》先生と云う老人に、今まで安達先生の受持っていた授業を一時嘱託した。
自分が始めて毛利先生を見たのは、その就任当日の午後である。自分たち三年級の生徒たちは、新しい教師を迎えると云う好奇心に圧迫されて、廊下《ろうか》に先生の靴音が響いた時から、いつになくひっそりと授業の始まるのを待ちうけていた。所がその靴音が、日かげの絶えた、寒い教室の外に止《とど》まって、やがて扉《ドア》が開かれると、――ああ、自分はこう云う中《うち》にも、歴々とその時の光景が眼に浮んでいる。扉《ドア》を開いてはいって来た毛利先生は、何より先《さき》その背の低いのがよく縁日の見世物に出る蜘蛛男《くもおとこ》と云うものを聯想させた。が、その感じから暗澹たる色彩を奪ったのは、ほとんど美しいとでも形容したい、光《ひかり》滑々《かつかつ》たる先生の禿げ頭で、これまた後頭部のあたりに、種々《しょうしょう》たる胡麻塩《ごましお》の髪の毛が、わずかに残喘《ざんぜん》を保っていたが、大部分は博物《はくぶつ》の教科書に画が出ている駝鳥《だちょう》の卵なるものと相違はない。最後に先生の風采を凡人以上に超越させたものは、その怪しげなモオニング・コオトで、これは過去において黒かったと云う事実を危く忘却させるくらい、文字通り蒼然たる古色を帯びたものであった。しかも先生のうすよごれた折襟には、極めて派手な紫の襟飾《ネクタイ》が、まるで翼をひろげた蛾《が》のように、ものものしく結ばれていたと云う、驚くべき記憶さえ残っている。だから先生が教室へはいると同時に、期せずして笑を堪《こら》える声が、そこここの隅から起ったのは、元《もと》より不思議でも何でもない。
が、読本《とくほん》と出席簿とを抱えた毛利《もうり》先生は、あたかも眼中に生徒のないような、悠然とした態度を示しながら、一段高い教壇に登って、自分たちの敬礼に答えると、いかにも人の好さそうな、血色の悪い丸顔に愛嬌《あいきょう》のある微笑を漂わせて、
「諸君」と、金切声《かなきりごえ》で呼びかけた。
自分たちは過去三年間、未嘗《いまだかつ》てこの中学の先生から諸君を以て遇《ぐう》せられた事は、一度もない。そこで毛利先生のこの「諸君」は、勢い自分たち一同に、思わず驚嘆の眼を見開かせた。と同時に自分たちは、すでに「諸君」と口を切った以上、その後はさしずめ授業方針か何かの大演説があるだろうと
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