それは何かわたしの来るのを待っているらしい表情だった。わたしはこう云う朝鮮牛の表情に穏かに戦を挑《いど》んでいるのを感じた。「あいつは屠殺者《とさつしゃ》に向う時もああ云う目をするのに違いない。」――そんな気もわたしを不安にした。わたしはだんだん憂鬱になり、とうとうそこを通り過ぎずにある横町へ曲って行った。
それから二三日たったある午後、わたしはまた画架に向いながら、一生懸命にブラッシュを使っていた。薄赤い絨氈《じゅうたん》の上に横たわったモデルはやはり眉毛《まゆげ》さえ動かさなかった。わたしはかれこれ半月の間、このモデルを前にしたまま、捗《はか》どらない制作をつづけていた。が、わたしたちの心もちは少しも互に打ち解けなかった。いや、むしろわたし自身には彼女の威圧を受けている感じの次第に強まるばかりだった。彼女は休憩《きゅうけい》時間にもシュミイズ一枚着たことはなかった。のみならずわたしの言葉にももの憂い返事をするだけだった。しかしきょうはどうしたのか、わたしに背中を向けたまま、(わたしはふと彼女の右の肩に黒子《ほくろ》のあることを発見した。)絨氈の上に足を伸ばし、こうわたしに話しかけ
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