み干《ほ》してしまつた。それを知つた博物学の先生は驚いて医者を迎へにやつた。医者は勿論やつて来るが早いか、先生に吐剤《とざい》を飲ませようとした。けれども先生は吐剤と云ふことを知ると、自若《じじやく》としてかう云ふ返事をした。
「山田次郎吉《やまだじろきち》は六十を越しても、まだ人様《ひとさま》のゐられる前でへど[#「へど」に傍点]を吐くほど耄碌《まうろく》はしませぬ。どうか車を一台お呼び下さい。」
先生は何《なん》とか云ふ法を行ひ、とうとう医者にもかからずにしまつた。僕はこの三四年の間《あひだ》は誰からも先生の噂を聞かない。あの面長《おもなが》の山田先生は或はもう列仙伝《れつせんでん》中の人々と一しよに遊んでゐるのであらう。しかし僕は不相変《あひかはらず》埃《ほこり》臭い空気の中に、――僕等をのせた円タクは僕のそんなことを考へてゐるうちに江東橋《かうとうばし》を渡つて走つて行つた。
緑町、亀沢町
江東橋《かうとうばし》を渡つた向うもやはりバラツクばかりである。僕は円タクの窓越しに赤錆《あかさび》をふいた亜鉛《トタン》屋根だのペンキ塗りの板目《はめ》だのを見ながら、確か明治四十三年にあつた大水《おほみづ》のことを思ひ出した。今日《こんにち》の本所《ほんじよ》は火事には会つても、洪水に会ふことはないであらう。が、その時の大水は僕の記憶に残つてゐるのでは一番|水嵩《みづかさ》の高いものだつた。江東橋《かうとうばし》界隈《かいわい》の人々の第三中学校へ避難したのもやはりこの大水のあつた時である。僕は江東橋を越えるのにも一面に漲《みなぎ》つた泥水の中を泳いで行《ゆ》かなければならなかつた。……
「実際その時は大変でしたよ。尤《もつと》も僕の家《うち》などは床《ゆか》の上へ水は来なかつたけれども。」
「では浅い所もあつたのですね?」
「緑町《みどりちやう》二丁目――かな。何《なん》でもあの辺は膝位《ひざくらゐ》まででしたがね。僕はSと云ふ友だちと一しよにその露地《ろぢ》の奥にゐるもう一人《ひとり》の友だちを見舞ひに行つたんです。するとSと云ふ友だちが溝《どぶ》の中へ落ちてしまつてね。……」
「ああ、水が出てゐたから、溝《どぶ》のあることがわからなかつたんですね。」
「ええ、――しかしSのやつは膝まで水の上に出てゐたんです。それがあつと言ふ拍子《ひやうし》に可也《かなり》深い溝だつたと見え、水の上に出てゐるのは首だけになつてしまつたんでせう。僕は思はず笑つてしまつてね。」
僕等をのせた円タクはかう云ふ僕等の話の中《うち》に寿座《ことぶきざ》の前を通り過ぎた。画看板《ゑかんばん》を掲げた寿座は余り昔と変らないらしかつた。僕の父の話によれば、この辺、――二つ目通りから先は「津軽《つがる》様」の屋敷だつた。「御維新《ごゐしん》」前《まへ》の或年の正月、父は川向うへ年始に行《ゆ》き、帰りに両国橋《りやうごくばし》を渡つて来ると、少しも見知らない若侍《わかざむらひ》が一人《ひとり》偶然父と道づれになつた。彼もちやんと大小をさし、鷹《たか》の羽《は》の紋のついた上下《かみしも》を着てゐた。父は彼と話してゐるうちにいつか僕の家《うち》を通り過ぎてしまつた。のみならずふと気づいた時には「津軽様」の溝《どぶ》の中へ転げこんでゐた。同時に又若侍はいつかどこかへ見えなくなつてゐた。父は泥まみれになつたまま、僕の家《うち》へ帰つて来た。何でも父の刀は鞘走《さやばし》つた拍子《ひやうし》にさかさまに溝の中に立つたと云ふことである。それから若侍に化《ば》けた狐は(父は未《いま》だこの若侍を狐だつたと信じてゐる。)刀の光に恐れた為にやつと逃げ出したのだと云ふことである。実際狐の化けたかどうかは僕にはどちらでも差支《さしつか》へない。僕は唯父の口からかう云ふ話を聞かされる度にいつも昔の本所《ほんじよ》の如何《いか》に寂しかつたかを想像してゐた。
僕等は亀沢町《かめざはちやう》の角《かど》で円タクをおり、元町《もとまち》通りを両国へ歩いて行つた。菓子屋の寿徳庵《じゆとくあん》は昔のやうにやはり繁昌《はんじやう》してゐるらしい。しかしその向うの質屋《しちや》の店は安田《やすだ》銀行に変つてゐる。この質屋の「利《り》いちやん」も僕の小学時代の友だちだつた。僕はいつか遊び時間に僕等の家《うち》にあるものを自慢《じまん》し合つたことを覚えてゐる。僕の友だちは僕のやうに年とつた小役人《こやくにん》の息子《むすこ》ばかりではない。が、誰も「利《り》いちやん」の言葉には驚嘆せずにはゐられなかつた。
「僕の家《うち》の土蔵《どざう》の中には大砲《おほづつ》万右衛門《まんゑもん》の化粧廻《けしやうまは》しもある。」
大砲《おほづつ》は僕等の小学時代に、――常陸山《ひたちやま》や梅《うめ》ヶ谷《たに》の大関だつた時代に横綱を張つた相撲《すまふ》だつた。
相生町
本所《ほんじよ》警察署もいつの間《ま》にかコンクリイトの建物に変つてゐる。僕の記憶にある警察署は古い赤|煉瓦《れんぐわ》の建物だつた。僕はこの警察署長の息子《むすこ》も僕の友だちだつたのを覚えてゐる。それから警察署の鄰《となり》にある蝙蝠傘屋《かうもりがさや》も――傘屋の木島《きじま》さんは今日《こんにち》でも僕のことを覚えてゐてくれるであらうか? いや、木島さん一人《ひとり》ではない。僕はこの界隈《かいわい》に住んでゐた大勢《おほぜい》の友だちを覚えてゐる。しかし僕の友だちは長い年月《としつき》の流れるのにつれ、もう全然僕などとは縁のない暮らしをしてゐるであらう。僕は四五年|前《まへ》の簡閲点呼《かんえつてんこ》に大紙屋《おほがみや》の岡本《をかもと》さんと一しよになつた。僕の知つてゐた大紙屋は封建時代に変りのない土蔵《どざう》造りの紙屋である。その又薄暗い店の中には番頭や小僧が何人も忙《いそが》しさうに歩きまはつてゐた。が、岡本さんの話によれば、今では店の組織も変り、海外へ紙を輸出するのにもいろいろ計画を立ててゐるらしい。
「この辺もすつかり変つてゐますか?」
「昔からある店もありますけれども、……町全体の落ち着かなさ加減はね。」
僕はその大紙屋《おほがみや》のあつた「馬車通り」(「馬車通り」と云ふのは四《よ》つ目《め》あたりへ通ふガタ馬車のあつた為である。)のぬかるみを思ひ出した。しかしまだ明治時代にはそこにも大紙屋のあつたやうに封建時代の影の落ちた何軒かの「しにせ」は残つてゐた。僕はこの馬車通りにあつた「魚善《うをぜん》」といふ肴屋《さかなや》を覚えてゐる。それから又|樋口《ひぐち》さんといふ門構への医者を覚えてゐる。最後にこの樋口さんの近所にピストル強盗|清水定吉《しみづさだきち》の住んでゐたことを覚えてゐる。明治時代もあらゆる時代のやうに何人かの犯罪的天才を造《つく》り出した。ピストル強盗も稲妻《いなづま》強盗や五寸|釘《くぎ》の虎吉《とらきち》と一しよにかう云ふ天才たちの一人《ひとり》だつたであらう。僕は彼の按摩《あんま》になつて警官の目をくらませてゐたり、彼の家の壁をがんどう返しにして出没を自在にしてゐたことにロマン趣味を感じずにはゐられなかつた。これ等の犯罪的天才は大抵《たいてい》は小説の主人公になり、更《さら》に又|所謂《いわゆる》壮士芝居の劇中人物になつたものである。僕はかういふ壮士芝居の中に「大悪僧《だいあくそう》」とか云ふものを見、一場《ひとば》々々の血なまぐささに夜も碌々《ろくろく》眠られなかつた。尤《もつと》もこの「大悪僧」は或はピストル強盗のやうに実在の人物ではなかつたかも知れない。
僕等はいつか埃《ほこり》の色をした国技館《こくぎくわん》の前へ通りかかつた。国技館は丁度《ちやうど》日光《につくわう》の東照宮《とうせうぐう》の模型《もけい》か何かを見世物《みせもの》にしてゐる所らしかつた。僕の通《かよ》つてゐた江東《かうとう》小学校は丁度《ちやうど》ここに建つてゐたものである。現に残つてゐる大銀杏《おほいてふ》も江東小学校の運動場の隅に、――といふよりも附属幼稚園の運動場の隅に枝をのばしてゐた。当時の小学校の校長の震災の為に死んだことは前に書いた通りである。が、僕はつい近頃やはり当時から在職してゐたT先生にお目にかかり、女生徒に裁縫《さいほう》を教へてゐた或女の先生も割《わ》り下水《げすゐ》に近い京極《きやうごく》子爵家(?)の溝《どぶ》の中に死んだことを知つたりした。この先生は着物は腐れ、体は骨になつてゐるものの、貯金帳だけはちやんと残つてゐた為にやつと誰だかわかつたさうである。T先生の話によれば、僕等を教へた先生たちは大抵《たいてい》は本所《ほんじよ》にゐないらしい。僕は比留間《ひるま》先生に張り倒されたことを覚えてゐる。それから宗《そう》先生に後頭部を突かれたことを覚えてゐる。それから葉若《はわか》先生に、――けれども僕の覚えてゐるのは体罰《たいばつ》を受けたことばかりではない。僕は又この小学校の中にいろいろの喜劇のあつたことも覚えてゐる。殊に大島《おほしま》と云ふ僕の親友のちやんと机に向つたまま、いつかうんこ[#「うんこ」に傍点]をしてゐたのは喜劇中の喜劇だつた。しかしこの大島|敏夫《としお》も――花や歌を愛してゐた江東小学校の秀才も二十《はたち》前後に故人になつてゐる。……
国技館の隣《とな》りに回向院《ゑかうゐん》のあることは大抵《たいてい》誰でも知つてゐるであらう。所謂《いはゆる》本場所の相撲《すまふ》も亦《また》国技館の出来ない前には回向院《ゑかうゐん》の境内《けいだい》に蓆張《むしろば》りの小屋をかけてゐたものである。僕等はこの義士の打ち入り以来、名高い回向院を見る為に国技館の横を曲つて行つた。が、それもここへ来る前にひそかに僕の予期してゐたやうにすつかり昔に変つてゐた。
回向院
今日《こんにち》の回向院《ゑかうゐん》はバラツクである。如何《いか》に金《きん》の紋《もん》を打つた亜鉛葺《トタンぶ》きの屋根は反《そ》つてゐても、硝子《ガラス》戸を立てた本堂はバラツクと云ふ外《ほか》に仕かたはない。僕等は読経《どきやう》の声を聞きながら、やはり僕には昔|馴染《なじ》みの鼠小僧《ねずみこぞう》の墓を見物に行つた。墓の前には今日《こんにち》でも乞食《こじき》が三四人集つてゐた。が、そんなことはどうでも善《よ》い。それよりも僕を驚かしたのは膃肭獣《をつとせい》供養塔と云ふものの立つてゐたことである。僕はぼんやりこの石碑を見上げ、何かその奥の鼠小僧の墓に同情しない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。
鼠小僧《ねずみこぞう》治郎太夫《ぢろだいふ》の墓は建札《たてふだ》も示してゐる通り、震災の火事にも滅びなかつた。赤い提灯《ちやうちん》や蝋燭《らふそく》や教覚速善《けうかくそくぜん》居士《こじ》の額《がく》も大体昔の通りである。尤《もつと》も今は墓の石を欠かれない用心のしてあるばかりではない。墓の前の柱にちやんと「御用のおかたにはお守《まも》り石をさし上げます」と書いた、小さい紙札も貼《は》りつけてある。僕等はこの墓を後ろにし、今度は又墓地の奥に、――国技館の後ろにある京伝《きやうでん》の墓を尋ねて行つた。
この墓地も僕にはなつかしかつた。僕は僕の友だちと一しよに度たびいたづらに石塔を倒し、寺男や坊さんに追ひかけられたものである。尤《もつと》も昔は樹木《じゆもく》も茂り、一口に墓地と云ふよりも卵塔場《らんたふば》と云ふ気のしたものだつた。が、今は墓石《ぼせき》は勿論《もちろん》、墓を繞《めぐ》つた鉄柵《てつさく》にも凄まじい火の痕《あと》は残つてゐる。僕は「水子塚《みづこづか》」の前を曲り、京伝《きやうでん》の墓の前へ辿《たど》り着いた。京伝の墓も京山《きやうざん》の墓と一しよにやはり昔に変つてゐない。唯それ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひよろりと枝をのばしたまま、若葉を開いてゐるのは哀れだつた。
僕等は回向院《ゑ
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