世《げんせい》の人々はかういふ言葉に微笑しない訣《わけ》にはゆかないであらう。人口過剰に苦しんでゐる僕等はこんなにたくさんの人間のゐることを神の愛の証拠《しようこ》と思ふことは出来ない。いや、寧《むし》ろ全能の主《しゆ》の憎しみの証拠とさへ思はれるであらう。しかし本所《ほんじよ》の或|場末《ばすゑ》の小学生を教育してゐる僕の旧友の言葉に依れば、少くともその界隈《かいわい》に住んでゐる人々は子供の数《かず》の多い家ほど反《かへ》つて暮らしも楽《らく》だと云ふことである。それは又どの家の子供も兎《と》に角《かく》十か十一になると、それぞれ子供なりに一日の賃金を稼《かせ》いで来るからだと云うことである。愛聖館《あいせいくわん》の掲示板にかういふ言葉を書いた人は或はこの事実を知らなかつたかも知れない。が、確かにかういふ言葉は現世の本所《ほんじよ》の或場末に生活してゐる人々の気持ちを代辯することになつてゐるであらう。尤《もつと》も子供の多い程暮らしも楽だといふことは子供自身には仕合せかどうか、多少の疑問のあることは事実である。
 それから僕等は通りがかりにちよつと萩寺《はぎでら》を見物した。萩寺も突つかひ棒はしてあるものの、幸ひ震災に焼けずにすんだらしい。けれども萩の四五株しかない上、落合直文《おちあひなほぶみ》先生の石碑を前にした古池の水も渇《か》れ渇《が》れになつてゐるのは哀れだつた。ただこの古池に臨んだ茶室だけは昔よりも一層もの寂《さ》びてゐる。僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所《ほんじよ》の猿江《さるえ》にあつた僕の家の菩提寺《ぼだいじ》を思ひ出した。この寺には何《なん》でも司馬江漢《しばかうかん》や小林平八郎《こばやしへいはちらう》の墓の外《ほか》に名高い浦里時次郎《うらざとときじろう》の翼比塚《ひよくづか》[#「比翼塚」の誤り?]も残つてゐたものである。僕の司馬江漢を知つたのは勿論余り古いことではない。しかし義士の討入りの夜《よ》に両刀を揮《ふる》つて闘つた振り袖姿の小林平八郎は小学時代の僕等には実に英雄そのものだつた。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のやうに芝居には悪縁の深いものである。従つて矢張《やは》り小学時代から浦里時次郎を尊敬してゐた。(けれども正直に白状すれば、はじめて浦里時次郎を舞台の上に見物した時、僕の恋愛を感じたものは浦里よりも寧《むし》ろ禿《かむろ》だつた。)この寺は――慈眼寺《じげんじ》といふ日蓮《にちれん》宗の寺は震災よりも何年か前に染井《そめゐ》の墓地《ぼち》のあたりに移転してゐる。彼等の墓も寺と一しよに定めし同じ土地に移転してゐるであらう。が、あのじめ/\した猿江《さるえ》の墓地は未《いま》だに僕の記憶に残つてゐる。就中《なかんづく》薄い水苔《みづごけ》のついた小林平八郎の墓の前に曼珠沙華《まんじゆしやげ》の赤々と咲いてゐた景色は明治時代の本所《ほんじよ》以外に見ることの出来ないものだつたかも知れない。
 萩寺《はぎでら》の先にある電柱(?)は「亀井戸《かめゐど》天神《てんじん》近道」といふペンキ塗りの道標《だうへう》を示してゐた。僕等はその横町《よこちやう》を曲《まが》り、待合《まちあひ》やカフエの軒を並べた、狭苦しい往来《わうらい》を歩いて行つた。が、肝腎《かんじん》の天神様へは容易《ようい》に出ることも出来なかつた。すると道ばたに女の子が一人《ひとり》メリンスの袂《たもと》を翻《ひるがへ》しながら、傍若無人《ばうじやくぶじん》にゴム毬《まり》をついてゐた。
「天神様へはどう行《ゆ》きますか?」
「あつち。」
 女の子は僕等に返事をした後《のち》、聞えよがしにこんなことを言つた。
「みんな天神様のことばかり訊《き》くのね。」
 僕はちよつと忌々《いまいま》しさを感じ、この如何《いか》にもこましやくれた十《とを》ばかりの女の子を振り返つた。しかし彼女は側目《わきめ》も振らずに(しかも僕に見られてゐることをはつきり承知してゐながら)矢張《やは》り毬《まり》をつき続けてゐた。実際支那人の言つたやうに「変らざるものよりして之を見れば」何ごとも変らないのに違ひない。僕も亦《また》僕の小学時代には鉄面皮《てつめんぴ》にも生薬屋《きぐすりや》へ行つて「半紙《はんし》を下さい」などと言つたものだつた。

     「天神様」

 僕等は門並《かどな》みの待合《まちあひ》の間《あひだ》をやつと「天神様《てんじんさま》」の裏門へ辿《たど》りついた。するとその門の中には夏外套を着た男が一人《ひとり》、何か滔々としやべりながら、「お立ち合ひ」の人々へ小さい法律書を売りつけてゐた。僕は彼の雄辯に辟易《へきえき》せずにはゐられなかつた。が、この人ごみを通りこすと、今度は背広を着た男が一人最新化学応用の目薬《めぐすり》と云ふものを売りつけてゐた。この「天神様」の裏の広場も僕の小学時代にはなかつたものである。しかし広場の出来た後《のち》にもここにかかる世見物小屋《みせものごや》[#「見世物小屋」の誤り?]は活《い》き人形や「からくり」ばかりだつた。
「こつちは法律《はふりつ》、向うは化学――ですね。」
「亀井戸《かめゐど》も科学の世界になつたのでせう。」
 僕等はこんなことを話し合ひながら、久しぶりに「天神様」へお詣りに行つた。「天神様」の拝殿は仕合せにも昔に変つてゐない。いや、昔に変つてゐないのは筆塚《ふでづか》や石の牛も同じことである。僕は僕の小学時代に古い筆を何本も筆塚へ納めたことを思ひ出した。(が、僕の字は何年たつても、一向《いつかう》上達する容子《ようす》はない。)それから又石の牛の額へ銭を投げてのせることに苦心したことも思ひ出した。かう云ふ時に投げる銭は今のやうに一銭銅貨ではない。大抵《たいてい》は五厘銭か寛永通宝《くわんえいつうはう》である。その又穴銭の中の文銭《ぶんせん》を集め、所謂《いはゆる》「文銭の指環《ゆびわ》」を拵《こしら》へたのも何年|前《まへ》の流行であらう。僕等は拝殿の前へ立ち止まり、ちよつと帽をとつてお時宜《じぎ》をした。
「太鼓橋《たいこばし》も昔の通りですか?」
「ええ、――しかしこんなに小さかつたかな。」
「子供の時に大きいと思つたものは存外《ぞんぐわい》あとでは小さいものですね。」
「それは太鼓橋《たいこばし》ばかりぢやないかも知れない。」
 僕等は暖簾《のれん》をかけた掛け茶屋越しにどんより水光りのする池を見ながら、やつと短い花房を垂らした藤棚《ふぢだな》の下を歩いて行つた。この掛け茶屋や藤棚もやはり昔に変つてゐない。しかし木の下や池のほとりに古人の句碑の立つてゐるのは僕には何か時代錯誤を感じさせない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。江戸時代に興つた「風流」は江戸時代と一しよに滅んでしまつた。唯僕等の明治時代はまだどこかに二百年間の「風流」の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》を残してゐた。けれども今は目《ま》のあたりに、――O君はにやにや笑ひながら、恐らくは君自身は無意識に僕にこの矛盾を指《さ》し示した。
「カルシウム煎餅《せんべい》も売つてゐますね。」
「ああ、あの大きい句碑の前にね。――それでもまだ張《は》り子《こ》の亀の子は売つてゐる。」
 僕等は、「天神様」の外へ出た後、「船橋屋《ふなばしや》」の葛餅《くずもち》を食ふ相談をした。が、本所《ほんじよ》に疎遠《そゑん》になつた僕には「船橋屋」も容易に見つからなかつた。僕はやむを得ず荒物屋《あらものや》の前に水を撒《ま》いてゐたお上《かみ》さんに田舎《ゐなか》者らしい質問をした。それから花柳病《くわりうびやう》の医院の前をやつと又船橋屋へ辿《たど》り着いた。船橋屋も家は新《あら》たになつたものの、大体は昔に変つてゐない。僕等は縁台《えんだい》に腰をおろし、鴨居《かもゐ》の上にかけ並べた日本アルプスの写真を見ながら、葛餅を一盆《ひとぼん》づつ食ふことにした。
「安いものですね、十銭とは。」
 O君は大いに感心してゐた。しかし僕の中学時代には葛餅も一盆《ひとぼん》三銭だつた。僕は僕の友だちと一しよに江東梅園《かうとうばいゑん》などへ遠足に行つた帰りに度たびこの葛餅を食つたものである。江東梅園も臥龍梅《ぐわりゆうばい》と一しよに滅びてしまつてゐるであらう。水田《すゐでん》や榛《はん》の木のあつた亀井戸《かめゐど》はかう云ふ梅の名所だつた為に南画《なんぐわ》らしい趣《おもむき》を具へてゐた。が、今は船橋屋の前も広い新開の往来《わうらい》の向うに二階建の商店が何軒も軒を並べてゐる。……

     錦糸堀

 僕は天神橋《てんじんばし》の袂《たもと》から又円タクに乗ることにした。この界隈《かいわい》はどこを見ても、――僕はもう今昔《こんじやく》の変化を云々《うんぬん》するのにも退屈した。僕の目に触れるものは半《なか》ば出来上つた小公園である。或は亜鉛塀《トタンべい》を繞《めぐ》らした工場である。或は又見すぼらしいバラツクである。斎藤茂吉《さいとうもきち》氏は何かの機会に「ものの行《ゆ》きとどまらめやも」と歌ひ上げた。しかし今日《こんにち》の本所《ほんじよ》は「ものの行き」を現してゐない。そこにあるものは震災の為に生じた「ものの飛び[#「飛び」に傍点]」に近いものである。僕は昔この辺に糧秣廠《りやうまつしやう》のあつたことを思ひ出し、更にその糧秣廠に火事のあつたことを思ひ出し、如露亦如電《によろやくによでん》といふ言葉の必《かならず》しも誇張でないことを感じた。
 僕の通《かよ》つてゐた第三中学校も鉄筋コンクリイトに変つてゐる。僕はこの中学校へ五年の間《あひだ》通《かよ》ひつづけた。当時の校舎も震災の為に灰になつてしまつたのであらう。が、僕の中学時代には鼠色のペンキを塗つた二階建の木造だつた。それから校舎のまはりにはポプラアが何本かそよいでゐた。(この界隈《かいわい》は土の痩《や》せてゐる為にポプラア以外の木は育ち悪《にく》かつたのである。)僕はそこへ通つてゐるうちに英語や数学を覚えた外《ほか》にも如何《いか》に僕等人間の情け無いものであるかを経験した。かう云ふのは僕の先生たちや友だちの悪口《わるぐち》を言つてゐるのではない。僕等人間と云ふうちには勿論僕のこともはひつてゐるのである。たとへば僕等は或友だちをいぢめ、彼を砂の中に生き埋めにした。僕等の彼をいぢめたのは格別理由のあつた訣《わけ》ではない。若し又理由らしいものを挙げるとすれば、唯彼の生意気《なまいき》だつた、――或は彼は彼自身を容易に曲《ま》げようとしなかつたからである。僕はもう五六年|前《ぜん》、久しぶりに彼とこの話をし、この小事件も彼の心に暗い影を落してゐるのを感じた。彼は今は揚子江《やうすこう》の岸に不相変《あひかはらず》孤独に暮らしてゐる。……
 かう云ふ僕の友だちと一しよに僕の記憶に浮んで来るのは僕等を教へた先生たちである。僕はこの「繁昌記《はんじやうき》」の中に一々そんな記憶を加へるつもりはない。けれども唯|一人《ひとり》この機会にスケツチしておきたいのは山田《やまだ》先生である。山田先生は第三中学校の剣道部と云ふものの先生だつた。先生の剣道は封建《ほうけん》時代の剣客《けんかく》に勝《まさ》るとも劣らなかつたであらう。何《なん》でも先生に学んだ一人《ひとり》は武徳会の大会に出、相手の小手《こて》へ竹刀《しなひ》を入れると、余り気合ひの烈《はげ》しかつた為に相手の腕を一打ちに折つてしまつたとか云ふことだつた。が、僕の伝へたいのは先生の剣道のことばかりではない。先生は又食物を減じ、仙人《せんにん》に成る道も修行してゐた。のみならず明治時代にも不老不死の術に通じた、正真紛《しやうじんまぎ》れのない仙人の住んでゐることを確信してゐた。僕は不幸にも先生のやうに仙人に敬意を感じてゐない。しかし先生の鍛煉《たんれん》にはいつも敬意を感じてゐる。先生は或時博物学教室へ行《ゆ》き、そこにあつたコツプの昇汞水《しようこうすゐ》を水と思つて飲
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