かうゐん》の表門を出、これもバラツクになつた坊主《ばうず》軍鶏《しやも》を見ながら、一《ひと》つ目《め》の橋へ歩いて行つた。僕の記憶を信ずるとすれば、この一つ目の橋のあたりは大正時代にも幾分か広重《ひろしげ》らしい画趣を持つてゐたものである。しかしもう今日《こんにち》ではどこにもそんな景色は残つてゐない。僕等は無慙《むざん》にもひろげられた路《みち》を向う両国《りやうごく》へ引き返しながら、偶然「泰《たい》ちやん」の家《うち》の前を通りかかつた。「泰ちやん」は下駄屋《げたや》の息子《むすこ》である。僕は僕の小学時代にも作文は多少|上手《じやうず》だつた。が、僕の作文は、――と云ふよりも僕等の作文は、大抵《たいてい》は所謂《いはゆる》美文だつた。「富士の峯白くかりがね池の面《おもて》に下《くだ》り、空仰げば月|麗《うるは》しく、余が影法師黒し。」――これは僕の作文ではない。二三年|前《まへ》に故人になつた僕の小学時代の友だちの一人《ひとり》、――清水昌彦《しみづまさひこ》君の作文である。「泰ちやん」はかう云ふ作文の中にひとり教科書の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》のない、活き活きした口語文を作つてゐた。それは何《なん》でも「虹《にじ》」といふ作文の題の出た時である。僕は内心僕の作文の一番になることを信じてゐた。が、先生の一番にしたのは「泰ちやん」――下駄屋「伊勢甚《いせじん》」の息子|木村泰助《きむらたいすけ》君の作文だつた。「泰ちやん」は先生の命令を受け、彼自身の作文を朗読《らうどく》した。それは恐らくは誰よりも僕を動かさずにはおかなかつた。僕は勿論「泰ちやん」の為に見事に敗北を受けたことを感じた。同時に又「泰《たい》ちやん」の描《ゑが》いた「虹」にありありと夕立ちの通り過ぎたのを感じた。僕を動かした文章は東西に亘《わた》つて少くはない。しかしまづ僕を動かしたのはこの「泰ちやん」の作文である。運命は僕を売文の徒にした。若し「泰ちやん」も僕のやうにペンを執《と》つてゐたとすれば、「大東京|繁昌記《はんじやうき》」の読者はこの「本所《ほんじよ》両国《りやうごく》」よりも或は数等美しい印象記を読んでゐたかも知れない。けれども「泰ちやん」はどうしてゐるであらう? 僕は幾つも下駄の並んだ飾り窓の前に佇《たたず》んだまま、そつと店の中へ目を移した。店の中には「泰ちやん」のお母さんらしい人が一人《ひとり》坐つてゐる。が、木村泰助君は生憎《あいにく》どこにも見えなかつた。……
方丈記
僕「今日は本所《ほんじよ》へ行つて来ましたよ。」
父「本所もすつかり変つたな。」
母「うちの近所はどうなつてゐるえ?」
僕「どうなつてゐるつて、……釣竿屋の石井《いしゐ》さんにうちを売つたでせう。あの石井さんのあるだけですね。ああ、それから提灯屋《ちやうちんや》もあつた。……」
伯母《をば》「あすこには洗湯《せんたう》もあつたでせう。」
僕「今でも常磐湯《ときはゆ》と云ふ洗湯はありますよ。」
伯母「常磐湯と言つたかしら。」
妻「あたしのゐた辺《へん》も変つたでせうね?」
僕「変らないのは石河岸《いしがし》だけだよ。」
妻「あすこにあつた、大きい柳は?」
僕「柳などは勿論焼けてしまつたさ。」
母「お前のまだ小さかつた頃には電車も通つてゐなかつたんだからね。」
父「上野《うへの》と新橋《しんばし》との間《あひだ》さへ鉄道馬車があつただけなんだから。――鉄道馬車と云ふ度に思ひ出すのは……」
僕「僕の小便をしてしまつた話でせう。満員の鉄道馬車に乗つたまま。……」
伯母「さうさう、赤いフランネルのズボン下をはいて、……」
父「何、あの鉄道馬車会社の神戸《かんべ》さんのことさ。神戸さんもこの間《あひだ》死んでしまつたな。」
僕「東京電燈の神戸《かんべ》さんでせう。へええ、神戸さんを知つてゐるんですか?」
父「知つてゐるとも。大倉《おほくら》さんなども知つてゐたもんだ。」
僕「大倉|喜八郎《きはちらう》をね……」
父「僕も[#「僕も」に傍点]あの時分にどうかすれば、……」
僕「もうそれだけで沢山《たくさん》ですよ。」
伯母「さうだね。この上損でもされてゐた日には……」(笑ふ)
僕「『榛《はん》の木《き》馬場《ばば》』あたりはかたなしですね。」
父「あすこには葛飾北斎《かつしかほくさい》が住んでゐたことがある。」
僕「『割《わ》り下水《げすゐ》』もやつぱり変つてしまひましたよ。」
母「あすこには悪《わる》御家人《ごけにん》が沢山《たくさん》ゐてね。」
僕「僕の覚えてゐる時分でも何かそんな気のする所でしたね。」
妻「お鶴《つる》さんの家《うち》はどうなつたでせう?」
僕「お鶴さん? ああ、あの藍問屋《あゐどんや》の娘さんか。」
妻「ええ、兄《にい》さんの好きだつた人。」
僕「あの家《うち》どうだつたかな。兄さんの為にも見て来るんだつけ。尤《もつと》も前は通つたんだけれども。」
伯母「あたしは地震の年以来一度も行つたことはないんだから、――行つても驚くだらうけれども。」
僕「それは驚くだけですよ。伯母《をば》さんには見当《けんたう》もつかないかも知れない。」
父「何しろ変りも変つたからね。そら、昔は夕がたになると、みんな門を細目《ほそめ》にあけて往来《わうらい》を見てゐたもんだらう?」
母「法界節《ほふかいぶし》や何かの帰つて来るのをね。」
伯母「あの時分は蝙蝠《かうもり》も沢山《たくさん》ゐたでせう。」
僕「今は雀さへ飛んでゐませんよ。僕は実際|無常《むじやう》を感じてね。……それでも一度行つてごらんなさい。まだずんずん変らうとしてゐるから。」
妻「わたしは一度子供たちに亀井戸《かめゐど》の太鼓橋《たいこばし》を見せてやりたい。」
父「臥龍梅《ぐわりゆうばい》はもうなくなつたんだらうな?」
僕「ええ、あれはもうとうに。……さあ、これから驚いたと云ふことを十五回だけ書かなければならない。」
妻「驚いた、驚いたと書いてゐれば善《い》いのに。」(笑ふ)
僕「その外《ほか》に何も書けるもんか。若し何か書けるとすれば、……さうだ。このポケツト本の中にちやんともう誰か書き尽してゐる。――『玉敷《たましき》の都の中に、棟《むね》を並べ甍《いらか》を争へる、尊《たか》き卑《いや》しき人の住居《すまひ》は、代々《よよ》を経《へ》てつきせぬものなれど、これをまことかと尋《たづ》ぬれば、昔ありし家は稀《まれ》なり。……いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人《ひとり》二人《ふたり》なり。朝《あした》に死し、夕《ゆふべ》に生まるるならひ、ただ水の泡《あわ》にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方《いづかた》より来りて、何方《いづかた》へか去る。』……」
母「何だえ、それは? 『お文様《ふみさま》』のやうぢやないか?」
僕「これですか? これは『方丈記《はうぢやうき》』ですよ。僕などよりもちよつと偉かつた鴨《かも》の長明《ちやうめい》と云ふ人の書いた本ですよ。」
[#地から1字上げ](昭和二年五月)
底本:「芥川龍之介全集 第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1971(昭和46)年10月5日初版第5刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年8月23日公開
2004年3月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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