こ》にも見えない。僕は丁度《ちやうど》道ばたに芋《いも》を洗つてゐた三十前後の男に渡し場の有無《うむ》をたづねて見ることにした。しかし彼は「富士見の渡し」といふ名前を知つてゐないのは勿論、渡し場のあつたことさへ知らないらしかつた。「富士見の渡し」はこの河岸《かし》から「明治病院」の裏手に当る向う河岸《がし》へ通《かよ》つてゐた。その又向う河岸は掘割りになり、そこに時々|何処《どこ》かの家《うち》の家鴨《あひる》なども泳いでゐたものである。僕は中学へはひつた後《のち》も或親戚を尋ねる為めに度々《たびたび》「富士見の渡し」を渡つて行つた。その親戚は三遊派《さんゆうは》の「五《ご》りん」とかいふもののお上《かみ》さんだつた。僕の家《うち》へ何かの拍子《ひやうし》に円朝《ゑんてう》の息子《むすこ》の出入《しゆつにふ》したりしたのもかういふ親戚のあつた為めであらう。僕は又その家の近所に今村次郎《いまむらじらう》といふ標札を見付け、この名高い速記者(種々の講談の)に敬意を感じたことを覚えてゐる。――
 僕は講談といふものを寄席《よせ》では殆《ほとん》ど聞いたことはない。僕の知つてゐる講釈師は先代の
前へ 次へ
全57ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング