には「泰ちやん」のお母さんらしい人が一人《ひとり》坐つてゐる。が、木村泰助君は生憎《あいにく》どこにも見えなかつた。……

     方丈記

 僕「今日は本所《ほんじよ》へ行つて来ましたよ。」
 父「本所もすつかり変つたな。」
 母「うちの近所はどうなつてゐるえ?」
 僕「どうなつてゐるつて、……釣竿屋の石井《いしゐ》さんにうちを売つたでせう。あの石井さんのあるだけですね。ああ、それから提灯屋《ちやうちんや》もあつた。……」
 伯母《をば》「あすこには洗湯《せんたう》もあつたでせう。」
 僕「今でも常磐湯《ときはゆ》と云ふ洗湯はありますよ。」
 伯母「常磐湯と言つたかしら。」
 妻「あたしのゐた辺《へん》も変つたでせうね?」
 僕「変らないのは石河岸《いしがし》だけだよ。」
 妻「あすこにあつた、大きい柳は?」
 僕「柳などは勿論焼けてしまつたさ。」
 母「お前のまだ小さかつた頃には電車も通つてゐなかつたんだからね。」
 父「上野《うへの》と新橋《しんばし》との間《あひだ》さへ鉄道馬車があつただけなんだから。――鉄道馬車と云ふ度に思ひ出すのは……」
 僕「僕の小便をしてしまつた話でせ
前へ 次へ
全57ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング