のない、活き活きした口語文を作つてゐた。それは何《なん》でも「虹《にじ》」といふ作文の題の出た時である。僕は内心僕の作文の一番になることを信じてゐた。が、先生の一番にしたのは「泰ちやん」――下駄屋「伊勢甚《いせじん》」の息子|木村泰助《きむらたいすけ》君の作文だつた。「泰ちやん」は先生の命令を受け、彼自身の作文を朗読《らうどく》した。それは恐らくは誰よりも僕を動かさずにはおかなかつた。僕は勿論「泰ちやん」の為に見事に敗北を受けたことを感じた。同時に又「泰《たい》ちやん」の描《ゑが》いた「虹」にありありと夕立ちの通り過ぎたのを感じた。僕を動かした文章は東西に亘《わた》つて少くはない。しかしまづ僕を動かしたのはこの「泰ちやん」の作文である。運命は僕を売文の徒にした。若し「泰ちやん」も僕のやうにペンを執《と》つてゐたとすれば、「大東京|繁昌記《はんじやうき》」の読者はこの「本所《ほんじよ》両国《りやうごく》」よりも或は数等美しい印象記を読んでゐたかも知れない。けれども「泰ちやん」はどうしてゐるであらう? 僕は幾つも下駄の並んだ飾り窓の前に佇《たたず》んだまま、そつと店の中へ目を移した。店の中
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