しきりば》と一しよに度々この人通りの少ない「百本杭」の河岸《かし》を使つてゐた。僕は夜は「百本杭」の河岸《かし》を歩いたかどうかは覚えてゐない。が、朝は何度もそこに群《むら》がる釣師の連中を眺めに行つた。O君は僕のかういふのを聞き、大川《おほかは》でも魚《さかな》の釣れたことに多少の驚嘆を洩《も》らしてゐた。一度も釣竿を持つたことのない僕は「百本杭」で釣れた魚の何《なん》と何《なん》だつたかを知つてゐない。しかし或夏の夜明けにこの河岸《かし》へ出かけてみると、いつも多い釣師の連中は一人《ひとり》もそこに来てゐなかつた。その代りに杭の間《あひだ》には坊主《ばうず》頭の土左衛門《どざゑもん》が一人《ひとり》俯向《うつむ》けに浪に揺すられてゐた。……
 両国橋《りやうごくばし》の袂《たもと》にある表忠碑も昔に変らなかつた。表忠碑を書いたのは日露役《にちろえき》の陸軍総司令官|大山巖《おほやまいはほ》侯爵である。日露役の始まつたのは僕の中学へはひり立てだつた。明治二十五年に生れた僕は勿論日清役のことを覚えてゐない。しかし北清《ほくしん》事変の時には大平《だいへい》といふ広小路《ひろこうぢ》(両
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