子《こ》の亀の子は売つてゐる。」
 僕等は、「天神様」の外へ出た後、「船橋屋《ふなばしや》」の葛餅《くずもち》を食ふ相談をした。が、本所《ほんじよ》に疎遠《そゑん》になつた僕には「船橋屋」も容易に見つからなかつた。僕はやむを得ず荒物屋《あらものや》の前に水を撒《ま》いてゐたお上《かみ》さんに田舎《ゐなか》者らしい質問をした。それから花柳病《くわりうびやう》の医院の前をやつと又船橋屋へ辿《たど》り着いた。船橋屋も家は新《あら》たになつたものの、大体は昔に変つてゐない。僕等は縁台《えんだい》に腰をおろし、鴨居《かもゐ》の上にかけ並べた日本アルプスの写真を見ながら、葛餅を一盆《ひとぼん》づつ食ふことにした。
「安いものですね、十銭とは。」
 O君は大いに感心してゐた。しかし僕の中学時代には葛餅も一盆《ひとぼん》三銭だつた。僕は僕の友だちと一しよに江東梅園《かうとうばいゑん》などへ遠足に行つた帰りに度たびこの葛餅を食つたものである。江東梅園も臥龍梅《ぐわりゆうばい》と一しよに滅びてしまつてゐるであらう。水田《すゐでん》や榛《はん》の木のあつた亀井戸《かめゐど》はかう云ふ梅の名所だつた為に南画《
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