世《げんせい》の人々はかういふ言葉に微笑しない訣《わけ》にはゆかないであらう。人口過剰に苦しんでゐる僕等はこんなにたくさんの人間のゐることを神の愛の証拠《しようこ》と思ふことは出来ない。いや、寧《むし》ろ全能の主《しゆ》の憎しみの証拠とさへ思はれるであらう。しかし本所《ほんじよ》の或|場末《ばすゑ》の小学生を教育してゐる僕の旧友の言葉に依れば、少くともその界隈《かいわい》に住んでゐる人々は子供の数《かず》の多い家ほど反《かへ》つて暮らしも楽《らく》だと云ふことである。それは又どの家の子供も兎《と》に角《かく》十か十一になると、それぞれ子供なりに一日の賃金を稼《かせ》いで来るからだと云うことである。愛聖館《あいせいくわん》の掲示板にかういふ言葉を書いた人は或はこの事実を知らなかつたかも知れない。が、確かにかういふ言葉は現世の本所《ほんじよ》の或場末に生活してゐる人々の気持ちを代辯することになつてゐるであらう。尤《もつと》も子供の多い程暮らしも楽だといふことは子供自身には仕合せかどうか、多少の疑問のあることは事実である。
 それから僕等は通りがかりにちよつと萩寺《はぎでら》を見物した。萩寺
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