云ふのも恐らくはこの往来の裏あたりであらう。僕は浅草《あさくさ》千束町《せんぞくまち》にまだ私娼の多かつた頃の夜《よる》の景色を覚えてゐる。それは窓ごとに火《ほ》かげのさした十二階の聳えてゐる為に殆《ほとん》ど荘厳な気のするものだつた。が、この往来はどちらへ抜けても、ボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違ひない。たとひデカダンスの詩人だつたとしても、僕は決してかう云ふ町裏を徘徊《はいくわい》する気にはならなかつたであらう。けれども明治時代の諷刺《ふうし》詩人《しじん》、斎藤緑雨《さいとうりよくう》は十二階に悪趣味そのものを見|出《いだ》してゐた。すると明日《みやうにち》の詩人たちは有田ドラツグや愛聖館にも彼等自身の「悪の花」を――或は又「善の花」を歌ひ上げることになるかも知れない。

     萩寺あたり

 僕は碌《ろく》でもないことを考へながら、ふと愛聖館《あいせいくわん》の掲示板《けいじばん》を見上げた。するとそこに書いてあるのは確かかういふ言葉だつた。
「神様はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらつしやいます。」
 産児制限論者は勿論、現
前へ 次へ
全57ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング