僕は渡し舟に乗る度に「一銭蒸汽」の浪の来ることを、――このうねうねした浪の為に舟の揺《ゆ》れることを恐れたものである。しかし今日《こんにち》の大川の上に大小の浪を残すものは一々数へるのに耐へないであらう。
僕は船端《ふなばた》に立つたまま、鼠色に輝いた川の上を見渡し、確か広重《ひろしげ》も描《か》いてゐた河童《かつぱ》のことを思ひ出した。河童は明治時代には、――少くとも「御維新《ごゐしん》」前後には大根河岸《だいこんがし》の川にさへ出没してゐた。僕の母の話に依れば、観世新路《くわんぜじんみち》に住んでゐた或男やもめの植木屋とかは子供のおしめを洗つてゐるうちに大根河岸《だいこんがし》の川の河童に腋《わき》の下をくすぐられたと言ふことである。(観世新路に植木屋の住んでゐたことさへ僕等にはもう不思議である。)まして大川にゐた河童の数《かず》は決して少くはなかつたであらう。いや、必《かならず》しも河童ばかりではない。僕の父の友人の一人《ひとり》は夜網《よあみ》を打ちに出てゐたところ、何か舳《とも》へ上《あが》つたのを見ると、甲羅《かふら》だけでも盥《たらひ》ほどあるすつぽんだつたなどと話して
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