が、兎《と》に角《かく》新芽を吹いた昔の並《な》み木の一本である。僕の覚えてゐる柳の木は一本も今では残つてゐない。けれどもこの木だけは何かの拍子《ひやうし》に火事にも焼かれずに立つてゐるのであらう。僕は殆《ほとん》どこの木の幹に手を触《ふ》れて見たい誘惑を感じた。のみならずその木の根元には子供を連れたお婆《ばあ》さんが二人|曇天《どんてん》の大川を眺めながら、花見か何かにでも来てゐるやうに稲荷鮨《いなりずし》を食べて話し合つてゐた。
本所会館の隣にあるのは建築中の同愛《どうあい》病院である。高い鉄の櫓《やぐら》だの、何階建かのコンクリイトの壁だの、殊《こと》に砂利《じやり》を運ぶ人夫《にんぷ》だのは確かに僕を威圧するものだつた。同時に又工業地になつた「本所の玄関」といふ感じを打ち込まなければ措《お》かないものだつた。僕は半裸体の工夫《こうふ》が一人《ひとり》、汗に体を輝かせながら、シヤベルを動かしてゐるのを見、本所全体もこの工夫のやうに烈しい生活をしてゐることを感じた。この界隈《かいわい》の家々の上に五月|幟《のぼり》の翻《ひるがへ》つてゐたのは僕の小学時代の話である。今では、――誰
前へ
次へ
全57ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング