》を思ひ出したりした。「お竹倉」は勿論その頃には厳《いかめ》しい陸軍被服廠や両国駅に変つてゐた。けれども震災後の今日《こんにち》を思へば、――「卻《かへ》つて并州《へいしう》を望めば是《これ》故郷」と支那人の歌つたのも偶然ではない。
 総武《そうぶ》鉄道の工事の始まつたのはまだ僕の小学時代だつたであらう。その以前の「お竹倉」は夜《よる》は「本所《ほんじよ》の七《なな》不思議」を思ひ出さずにはゐられない程もの寂しかつたのに違ひない。夜は?――いや、昼間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉《かたは》の芦《あし》」は何処《どこ》かこのあたりにあるものと信じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。現に夜学に通《かよ》ふ途中、「お竹倉」の向うに莫迦囃《ばかばや》しを聞き、てつきりあれは「狸囃《たぬきばや》し」に違ひないと思つたことを覚えてゐる。それはおそらくは小学時代の僕|一人《ひとり》の恐怖ではなかつたのであらう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへ通《かよ》つてゐた線路工夫の一人《ひとり》は宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまつたとかいふことだつた。

     「大川端」

 
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