《やすだけ》の庭の池の側へ落ちてどうにか息を吹き返したのである。それから又僕の家へ毎日のやうに遊びに来た「お条《でう》さん」という人などは命だけは助かつたものの、一時は発狂したのも同様だつた。(「お条さん」は髪の毛の薄い為めに何処《どこ》へも片付かずにゐる人だつた。しかし髪の毛を生《は》やす為めに蝙蝠《かうもり》の血などを頭へ塗《ぬ》つてゐた。)最後に僕の通《かよ》つてゐた江東《かうとう》小学校の校長さんは両眼とも明《めい》を失つた上、前年にはたつた一人の息子を失ひ、震災の年には御夫婦とも焼け死んでしまつたとか言ふことだつた。僕も本所《ほんじよ》に住んでゐたとすれば、恐らくは矢張《やは》りこの界隈《かいわい》に火事を避けてゐたことであらう。従つて又僕は勿論、僕の家族も彼等のやうに非業《ひごふ》の最後を遂げてゐたかも知れない。僕は高い褐色の本所会館を眺めながら、こんなことをO君と話し合つたりした。
「しかし両国橋《りやうごくばし》を渡つた人は大抵《たいてい》助かつてゐたのでせう?」
「両国橋を渡つた人はね。……それでも元町《もとまち》通りには高圧線の落ちたのに触《ふ》れて死んだ人もあつた
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