僕「ああ、その片輪の一人ですね。さっき髯《ひげ》の生えた盲《めくら》が一人、泥だらけの八《や》つ頭《がしら》を撫《な》でまわしながら、『この野菜の色は何とも云われない。薔薇《ばら》の花の色と大空の色とを一つにしたようだ』と云っていましたよ。」
老人「そうでしょう。盲《めくら》などは勿論|立派《りっぱ》なものです。が、最も理想的なのはこの上もない片輪《かたわ》ですね。目の見えない、耳の聞えない、鼻の利《き》かない、手足のない、歯や舌のない片輪ですね。そう云う片輪さえ出現すれば、一代の Arbiter elegantiarum になります。現在人気物の片輪などはたいていの資格を具《そな》えていますがね、ただ鼻だけきいているのです。何でもこの間はその鼻の穴へゴムを溶かしたのをつぎこんだそうですが、やはり少しは匂《におい》がするそうですよ。」
僕「ところでその片輪のきめた野菜の善悪はどうなるのです?」
老人「それがどうにもならないのです。いくら片輪に悪いと云われても、売れる野菜はずんずん売れてしまうのです。」
僕「じゃ商人の好みによるのでしょう?」
老人「商人は売れる見こみのある野菜ばかり買うのでしょう。すると善い野菜が売れるかどうか……」
僕「お待ちなさいよ。それならばまず片輪のきめた善悪を疑う必要がありますね。」
老人「それは野菜を作る連中はたいてい疑っているのですがね。じゃそう云う連中に野菜の善悪を聞いて見ると、やはりはっきりしないのですよ。たとえばある連中によれば『善悪は滋養《じよう》の有無《うむ》なり』と云うのです。が、またほかの連中によれば『善悪は味《あじわい》にほかならず』と云うのです。それだけならばまだしも簡単ですが……」
僕「へええ、もっと複雑《ふくざつ》なのですか?」
老人「その味なり滋養なりにそれぞれまた説が分れるのです。たとえばヴィタミンのないのは滋養がないとか、脂肪のあるのは滋養があるとか、人参《にんじん》の味は駄目《だめ》だとか、大根の味に限るとか……」
僕「するとまず標準は滋養と味と二つある、その二つの標準に種々様々のヴァリエエションがある、――大体こう云うことになるのですか?」
老人「中々《なかなか》そんなもんじゃありません。たとえばまだこう云うのもあります。ある連中に云わせると、色の上に標準もあるのです。あの美学の入門などに云う色の上の寒温ですね。この連中は赤とか黄とか温い色の野菜ならば、何でも及第させるのです。が、青とか緑とか寒い色の野菜は見むきもしません。何しろこの連中のモットオは『野菜をしてことごとく赤茄子《あかなす》たらしめよ。然らずんば我等に死を与えよ』と云うのですからね。」
僕「なるほどシャツ一枚の豪傑《ごうけつ》が一人、自作の野菜を積み上げた前にそんな演説をしていましたよ。」
老人「ああ、それがそうですよ。その温い色をした野菜はプロレタリアの野菜と云うのです。」
僕「しかし積み上げてあった野菜は胡瓜《きゅうり》や真桑瓜《まくわうり》ばかりでしたが、……」
老人「それはきっと色盲ですよ。自分だけは赤いつもりなのですよ。」
僕「寒い色の野菜はどうなのです?」
老人「これも寒い色の野菜でなければ野菜ではないと云う連中がいます。もっともこの連中は冷笑はしても、演説などはしないようですがね、肚《はら》の中では負けず劣らず温い色の野菜を嫌っているようです。」
僕「するとつまり卑怯《ひきょう》なのですか?」
老人「何、演説をしたがらないよりも演説をすることが出来ないのです。たいてい酒毒《しゅどく》か黴毒《ばいどく》かのために舌が腐《くさ》っているようですからね。」
僕「ああ、あれがそうなのでしょう。シャツ一枚の豪傑の向うに細いズボンをはいた才子が一人、せっせと南瓜《かぼちゃ》をもぎりながら、『へん、演説か』と云っていましたっけ。」
老人「まだ青い南瓜をでしょう。ああ云う色の寒いのをブルジョア野菜と云うのです。」
僕「すると結局どうなるのです? 野菜を作る連中によれば、……」
老人「野菜を作る連中によれば、自作の野菜に似たものはことごとく善い野菜ですが、自作の野菜に似ないものはことごとく悪い野菜なのです。これだけはとにかく確かですよ。」
僕「しかし大学もあるのでしょう? 大学の教授は野菜学の講義をしているそうですから、野菜の善悪を見分けるくらいは何でもないと思いますが、……」
老人「ところが大学の教授などはサッサンラップ島の野菜になると、豌豆《えんどう》と蚕豆《そらまめ》も見わけられないのです。もっとも一世紀より前の野菜だけは講義の中《うち》にもはいりますがね。」
僕「じゃどこの野菜のことを知っているのです?」
老人「英吉利《イギリス》の野菜、仏蘭西
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