う》には、未《いまだ》に珊瑚礁《さんごしょう》の潮《しお》けむりや、白檀山《びゃくだんやま》の匂いがしみているようです。
 弥三右衛門は長い御祈りを終ると、静かに老女へこう云いました。
「跡はただ何事も、天主《てんしゅ》の御意《ぎょい》次第と思うたが好《よ》い。――では釜のたぎっているのを幸い、茶でも一つ立てて貰おうか?」
 しかし老女は今更のように、こみ上げる涙を堪《こら》えるように、消え入りそうな返事をしました。
「はい。――それでもまだ悔《く》やしいのは、――」
「さあ、それが愚痴《ぐち》と云うものじゃ。北条丸《ほうじょうまる》の沈んだのも、抛《な》げ銀《ぎん》の皆倒れたのも、――」
「いえ、そんな事ではございません。せめては倅《せがれ》の弥三郎《やさぶろう》でも、いてくれればと思うのでございますが、……」
 わたしはこの話を聞いている内に、もう一度微笑が浮んで来ました。が、今度は北条屋《ほうじょうや》の不運に、愉快を感じたのではありません。「昔の恩を返す時が来た」――そう思う事が嬉しかったのです。わたしにも、御尋ね者の阿媽港甚内《あまかわじんない》にも、立派《りっぱ》に恩返しが
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