出来る愉快さは、――いや、この愉快さを知るものは、わたしのほかにはありますまい。(皮肉に)世間の善人は可哀そうです。何一つ悪事を働かない代りに、どのくらい善行を施《ほどこ》した時には、嬉しい心もちになるものか、――そんな事も碌《ろく》には知らないのですから。
「何、ああ云う人でなしは、居らぬだけにまだしも仕合せなぐらいじゃ。……」
 弥三右衛門は苦々《にがにが》しそうに、行燈《あんどん》へ眼を外《そ》らせました。
「あいつが使いおった金でもあれば、今度も急場だけは凌《しの》げたかも知れぬ。それを思えば勘当《かんどう》したのは、………」
 弥三右衛門はこう云ったなり、驚いたようにわたしを眺めました。これは驚いたのも無理はありません。わたしはその時声もかけずに、堺《さかい》の襖《ふすま》を明けたのですから。――しかもわたしの身なりと云えば、雲水《うんすい》に姿をやつした上、網代《あじろ》の笠を脱いだ代りに、南蛮頭巾《なんばんずきん》をかぶっていたのですから。
「誰だ、おぬしは?」
 弥三右衛門は年はとっていても、咄嗟《とっさ》に膝を起しました。
「いや、御驚きになるには及びません。わたしは
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