憂鬱の色を浮べた。が、すぐにまた元の通り、快活な微笑を取り戻すと、悪戯《いたずら》そうな眼つきになった。
「もうそれで御用ずみ。どうかあちらへいらしって下さい。」
「まあ、随分でございますね。」
女中は思わず笑い出した。
「そんな邪慳《じゃけん》な事をおっしゃると、蔦《つた》の家《や》から電話がかかって来ても、内証《ないしょ》で旦那様へ取次ぎますよ。」
「好《い》いわよ。早くいらっしゃいってば。紅茶がさめてしまうじゃないの?」
女中が出窓にいなくなると、女はまた編物を取り上げながら、小声に歌をうたい出した。
午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。部屋|毎《ごと》の花瓶に素枯《すが》れた花は、この間《あいだ》に女中が取り捨ててしまう。二階三階の真鍮《しんちゅう》の手すりも、この間に下男《ボオイ》が磨くらしい。そう云う沈黙が拡《ひろ》がった中に、ただ往来のざわめきだけが、硝子《ガラス》戸を開《あ》け放した諸方の窓から、日の光と一しょにはいって来る。
その内にふと女の膝《ひざ》から、毛糸の球《たま》が転げ落ちた。球はとんと弾《はず》むが早いか、一筋
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