そんなに悪い所じゃないぜ。第一社宅は大きいし、庭も相当に広いしするから、草花なぞ作るには持って来いだ。何でも元は雍家花園《ようかかえん》とか云ってね、――」
男は突然口を噤《つぐ》んだ。いつか森《しん》とした部屋の中には、かすかに人の泣くけはいがしている。
「おい。」
泣き声は急に聞えなくなった。と思うとすぐにまた、途切《とぎ》れ途切れに続き出した。
「おい。敏子《としこ》。」
半ば体を起した男は、畳に片肘《かたひじ》靠《もた》せたまま、当惑《とうわく》らしい眼つきを見せた。
「お前は己《おれ》と約束したじゃないか? もう愚痴《ぐち》はこぼすまい。もう涙は見せない事にしよう。もう、――」
男はちょいと瞼《まぶた》を挙げた。
「それとも何かあの事以外に、悲しい事でもあるのかい? たとえば日本へ帰りたいとか、支那でも田舎《いなか》へは行きたくないとか、――」
「いいえ。――いいえ。そんな事じゃなくってよ。」
敏子は涙を落し落し、意外なほど烈《はげ》しい打消し方をした。
「私はあなたのいらっしゃる所なら、どこへでも行く気でいるんです。ですけれども、――」
敏子は伏眼《ふしめ》に
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